伝記
ジェイン・オースティンは、1775年12月16日にハンプシャーのスティーブントンの牧師館で生まれ、1817年7月18日に亡くなったイギリスの小説家である。18世紀から19世紀のイングランドの田舎の中流社会を舞台に、結婚を中心とする女性の私生活を、皮肉と愛情を込めて描いた。その作品は近代イギリス長編小説の頂点とみなされている。牧師の父ジョージは9歳で孤児となったが、伯父に助けられてオックスフォード大学に入った人物で、母はカサンドラといった。兄弟姉妹は多かった。長兄ジェームズは詩などを発表して、ジェインに影響を与えた。五兄フランシスと弟チャールズは海軍に進んで提督にまで昇進した。姉のカサンドラとは生涯を通じて非常に親密であった。
1783年に姉とともに知り合いのもとに預けられ、短期間、オックスフォードとサウサンプトンで教育を受けた。1785年から翌年にかけては、バークシャーのレディングにある女子寄宿学校で学んだ。当時の一般の少女よりも充実した教育を受け、多くの文学作品に触れ、英訳されたゲーテの『若きウェルテルの悩み』も読んだという。1789年には早くも小説の原型を書き始めたが、友人や家族に読み聞かせて喜ばせるためであった。1795年に書簡体の「エリナとメアリアン」を、翌年には「第一印象」を書いたが、父が出版社へ「第一印象」の出版を打診した手紙は断られた。1797年11月、「エリナとメアリアン」を下敷きに「分別と多感」を書き始め、のちに『ノーサンガー・アビー』となる「スーザン」にも着手して、1803年に出版社に売ったが、生前には出版されなかった。
1801年、父が牧師職を長兄に譲り、一家は保養地バースへ移った。ジェインはその知らせに卒倒したというが、この地での経験は後に小説を書く糧となった。同年夏、デボンシャーで生涯唯一の恋をしたといわれる。1802年にはハリス・ビッグ=ウィザーからプロポーズされ、裕福な男との結婚は当時の中流階級の未婚女性にまたとない機会だったが、いったん受けた翌日に断った。1805年1月に父が亡くなると、母と姉とともにサウサンプトンの五兄の家で平穏に暮らした。妻を亡くした三兄エドワードの勧めで、1809年にチョートンへ移り、兄の所有するコテージで生活した。
1811年に『分別と多感』を匿名で出版し、1813年に「第一印象」をもとにした『高慢と偏見』を出した。作品はすべて匿名で発表され、親しい者にも明かさなかった。1814年に『マンスフィールド・パーク』を刊行したが、作者の名は世に知られなかった。1815年10月、『エマ』の出版直前に、偶然が重なって摂政王太子ジョージ(のちのジョージ4世)にもてなされた。王太子は作品の愛読者で、急遽『エマ』が献呈された。1816年から体調を崩し(現在ではアジソン病とされる)、1817年5月に療養のためウィンチェスターに移ったが、2か月後に亡くなり、ウィンチェスター大聖堂に葬られた。1818年に『ノーサンガー・アビー』と『説得』が出版された。
オースティンは、田舎に3、4の家庭があれば小説の材料になると述べ、扱う題材は狭かったが、人間の階級を徹底して描き、心理写実主義の先駆ともされる。モームは『高慢と偏見』を世界の十大小説に選び、夏目漱石も写実の泰斗と称賛した。2016年以降の10ポンド紙幣に肖像が使われている。
同じ年に亡くなった人物
- ハインリヒ13世 (ロイス=グライツ侯) (1817年没)
- ナンシー・ストーラス (1817年没)
- ワズィール・アリー・ハーン (1817年没)
- ヘルミーネ・フォン・アンハルト=ベルンブルク=シャウムブルク=ホイム (1817年没)
- アンドレ・マッセナ (1817年没)
同じ地域に関係する人物
- オーエン・リチャードソン (1959年没)
- ジョン・ラサム (1837年没)
- John Bellenden Ker Gawler (1842年没)
- ヘンリク・ジガルスキ (1978年没)
- ロバート・ボルト (1995年没)