伝記
レオ2世は、第80代ローマ教皇(在位682年8月17日~683年)である。生年は611年ごろとされ、シチリア出身とされるが、出身地については異説がある。パウルスという名の人物の子で、名医だった父のもとでカラブリアに生まれたともいわれ、先代アガトと同じくメッシーナ出身のシチリア人だったともいわれる。7世紀半ばにイスラム勢力がシチリアを襲ったため、多くのシチリアの聖職者がローマへ移っており、レオもその一人だった可能性が指摘されている。
若いころはローマの聖歌学校で学び、教皇庁の聖歌隊に属して音楽に深い関心を持った。雄弁な説教者として知られ、貧しい人々への施しでも名高かったと伝えられる。同時代の伝記作者は、公正で学識のある人物だったと評している。
681年1月10日にアガトが没すると、レオは同年4月16日に選ばれたとされる。ところが叙階されたのは682年8月17日で、一年以上が空いている。その理由として、教皇選出への皇帝の関与をめぐるアガトの交渉が絡んでいた可能性が挙げられる。東ローマ皇帝コンスタンティノス4世はこの選出をすぐには承認せず、折から開かれていた第3コンスタンティノポリス公会議で、単意論に寛容だったとされる故ホノリウス1世を断罪するよう求めたという。交渉は682年まで続き、皇帝は故人の断罪を得る代わりに、教皇選出の承認、教皇の常駐代理人のコンスタンティノポリス駐在、ラヴェンナ総督に対する教皇の優位の承認、シチリアとカラブリアから帝国財庫への納付の軽減などを認めたとされる。
在位は一年に満たず、大きな事績は多くない。最も重要なのは、単意論を退けた公会議の決議を承認したことである。レオは決議の承認を皇帝に伝えたうえで西方に知らせ、西ゴート王や司教、貴族に宛てた書簡で公会議の内容を説明し、司教たちに署名を求めた。ホノリウス1世の断罪については、同教皇が異端を説いたためではなく、それに積極的に立ち向かわなかったためだと説明することに意を用いた。ホノリウス1世を断じたラテン語の書簡の文言は、教皇不可謬性をめぐる議論で注目を集めてきた。皇帝宛ての書簡のギリシア語の原文では、より穏やかな表現が使われている。この教皇の指示に従い、684年にはトレドで教会会議が開かれて公会議が受け入れられた。
レオはラヴェンナ大司教がローマの支配から離れようとする動きを止めさせる一方、大司教がパリウムを受ける際に納めるのが慣例だった税を廃止した。ラヴェンナ教会のローマへの従属は、皇帝の勅令によっても最終的に定められたとされる。ランゴバルド人の襲撃への対応とみられる措置として、殉教者の遺骸の一部を墓所から市壁の内側の教会へ移し、聖パウロ教会と聖セバスティアヌス・聖ゲオルギウス教会を献堂した。また、グレゴリオ聖歌を改め、聖務日課のための聖歌をいくつか作曲したと伝えられる。
683年に没し(日付は6月28日とも7月3日ともいわれる)、後をベネディクトゥス2世が継いだ。遺骸は聖ペトロ大聖堂に葬られたとされ、当初は自身の墓に納められたが、数年後に同名の先代教皇4人が葬られた墓所へ移された。聖人として崇敬され、ローマ殉教録にも記されている。
同じ年に亡くなった人物
- ジャヴァンシル (683年)
- ムスリム・ブン・ウクバ (683年)
- ウクバ・イブン・ナフィ (683年)
- ムアーウィヤ2世 (683年没)
- キニチ・ハナーブ・パカル1世 (683年没)
同じ地域に関係する人物
- ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ (1680年没)
- ペッピノ・デ・フィリッポ (1980年没)
- パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレ (1986年没)
- マリア・ゴレッティ (1902年没)
- マルクス・クラウディウス・マルケッルス (紀元前166年の執政官) (紀元前148年没)