伝記
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニは、1598年12月7日に生まれ、1680年11月28日に没したバロック期を代表するイタリアの彫刻家、建築家、画家である。「ベルニーニはローマのために生まれ、ローマはベルニーニのためにつくられた」と賞賛され、古代遺跡の残るローマは彼の手によって、壮大なスケールと絢爛豪華な装飾にあふれる都へと変貌していった。1984年から1999年まで発行された5万リラ紙幣の裏面には、その肖像が採用されていた。
彫刻家ピエトロ・ベルニーニの子としてナポリに生まれた。父はフィレンツェ郊外生まれのトスカーナ人で、息子の誕生の少し前に、ナポリ人の妻とともにサン・マルティーノのカルトゥジオ会修道院で仕事をするためナポリへ移り住んでいた。1605年に一家がローマに戻ると、父は枢機卿の保護を得て、息子の早熟な才能を示す機会を得た。父が教皇パウルス5世のためにサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂で、他の画家や彫刻家と制作に当たる姿は、複数の芸術家による制作の体制や、彫刻・絵画・建築を一体にした計画を学ぶ機会となり、のちの仕事に反映された。ヘレニズム時代の彫刻に強い関心を抱き、1615年に制作した《雌山羊アマルティア》は、古びた大理石の質感まで精緻に模倣し、専門の学者を欺いて真のヘレニズム作品と信じ込ませるほどだったと伝えられる。
シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿のために《アイネイアースとアンキーセース》《プロセルピーナの略奪》《ダヴィデ》《アポロとダフネ》の4体の彫刻群を制作して、瞬く間に名声を得た。いずれも現在はローマのボルゲーゼ美術館に所蔵されている。建築家カルロ・マデルノのもとで建築に携わっていた1623年、25歳のときに転機が訪れる。バルベリーニ家出身の教皇ウルバヌス8世が、対抗宗教改革後のカトリック教会の威信を示す壮大な計画にふさわしい芸術家として、彼を見抜いたのである。最初の依頼は《聖女ビビアーナ像》で、続いてサン・ピエトロ大聖堂が舞台となり、バルベリーニ家の紋章の蜂をちりばめた、らせん状の円柱を持つ巨大なブロンズ製の天蓋(バルダッキーノ)を1624年から1633年にかけて制作した。1630年にマデルノが没すると、ボッロミーニと協力してバルベリーニ宮殿を完成させた。
しかし1641年、彼が設計に当たったサン・ピエトロ大聖堂の鐘塔に大きな亀裂が見つかり、ローマ中に広まるスキャンダルとなった。周囲の不満や嫉妬が一気に表面化し、「見かけばかりで実用をなさない」との批判を浴びた。1644年にウルバヌス8世が崩御し、パンフィーリ家出身の厳格な教皇インノケンティウス10世が後を継ぐと、注文の多くはボッロミーニら競合者に委ねられた。それでもこの時期に、サンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリア教会のコルナロ礼拝堂の《聖テレジアの法悦》や、ナヴォーナ広場の《四大河の泉》を手がけている。
1655年にキージ家出身の教皇アレクサンデル7世が即位すると、再び重く用いられた。サンタ・マリア・デル・ポポロ教会のキージ家礼拝堂の彫刻などに続き、1656年から1667年にかけてサン・ピエトロ広場の設計を託された。大聖堂の前の不整形な空き地を聖地にふさわしい場所に変えるため試行錯誤を重ね、1667年に広場は完成した。その後はフランス王ルイ14世に招かれ、ルーヴル宮殿の改築計画にも参画し、国際的にも高く評価された。最初の作品は17歳以前に作った幼いゼウスの像、最後の作品は81歳のときに手がけたキリスト像だったとされ、その制作活動は60年以上に及んだ。
同じ年に亡くなった人物
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