伝記
駱賓王は、唐代初期の詩人で、字を観光という。王勃・楊炯・盧照鄰とともに「初唐の四傑」と称される。家は婺州義烏県(いまの浙江省義烏市)の出身だが、育ったのは山東であった。生年は640年ごろとも619年ごろともいわれ、没年は684年とされるが疑問も残る。貧しい生まれで早くに落ちぶれ、博徒と交わることを好み、性格は傲慢で剛直だったという。詩の才は幼いころから現れ、6歳あるいは7歳で詩を作ったと伝えられる。そのとき作ったとされる「鵝を詠ず」は、鵝の鳴き声を思わせる冒頭が知られ、名を高めた作品である。冒頭で「鵝」の字を三度重ねる句は、中国語では鵝の鳴き声そのままに響き、続く句も形容詞・名詞・動詞・形容詞・名詞という同じ構成でそろえられている。
成人してのちは、高宗の叔父にあたる道王李元慶の幕僚を務め、665年からは長安の中央政府で働いた。670年には西域へ流され、その後は軍に従って雲南にも赴いた。さらに名将裴行倹が洮州の長官であったとき、その幕下で軍事の文書をつかさどったが、裴行倹とは折り合いが悪かった。裴行倹は、駱賓王を含む四傑を評価せず、王勃の兄の王勮や蘇味道の才を好んだという。やがて長安県の主簿となった。低い官ではあるが、都にあるため相応の格があった。長安主簿となったのは683年ともされる。678年には武則天を批判したため罷免され、投獄されたが、翌年に釈放された。683年に高宗が崩じると、武后(のちの武則天)が摂政として政治を握り、中宗を廃して睿宗を立てた。駱賓王はいくつもの意見書を武后に出したが採用されず、684年に臨海県の丞に左遷された。出世の望みを失った彼は官職を捨てて去ったともいわれる。
同じように左遷された官僚たちとともに揚州に集まり、英国公の李敬業を盟主に仰いで、中宗の復位を掲げて武后に反旗を翻した。駱賓王は反乱軍の文書をつかさどり、武后を激しく非難する檄文を起草した。この檄文は、武后の罪を天下に告げ知らせるものであった。武后はこの檄を読んで、「蛾眉 敢えて人に譲らず 狐媚 偏えに能く主を惑わす」のあたりでは笑っていたが、「一抔の土 未だ乾かざるに、六尺の孤 安くにか在る」の句にいたると顔色を改め、作者を尋ねた。駱賓王の名を知ると、「このような才ある者を不遇にしたのは宰相の過ちである」と述べたという。
李敬業の軍が敗れたのちの駱賓王の最期については、史書の記述が分かれる。『旧唐書』は殺されたとし、『新唐書』は行方が知れなくなったと記す。亡命したとも、のちに銭塘の霊隠寺に住んでいたという伝説もあり、「霊隠寺」と題する詩も残る。武后は彼の文才を重んじ、詔して数百編の文章を集めさせ、郗雲卿に編纂を命じた。これが『駱丞集』4巻で、作品は頌・賦・五言と七言の古詩・五言律詩・排律・絶句・七言絶句・啓・書・叙・雑著の11項目に分けて収められている。
文章では、対句を連ねた華やかな駢文の名手であった。詩の多くは古体詩で、これも散文と同じく技巧が凝らされていることが多い。詩は五言律詩に優れ、「帝京篇」は古今の絶唱とされる。数字を好んで対句に用いたため、「算博士」というあだ名もあった。辺境を詠む詩も作り、長い自伝的な叙事詩のほか、「蝉を詠ず」も広く名高く、後世の詩人にも影響を及ぼした。松枝茂夫は『中国名詩選』で、代表作に「易水送別」を選んでいる。字は観光であった。
同じ年に亡くなった人物
- 'Abd Allah ibn 'Amr ibn al-'As (684年没)
- ヌゥマーン・イブン・バシール・アル=アンサーリー (684年没)
- Aldegund (684年)