伝記
ヌウマーン・ブン・バシール・アル=アンサーリーは、預言者ムハンマドの教友で、軍の指揮官、また統治者として活動した人物である。メディナのアンサールに属するハズラジュ族の出身で、ヒジュラ(ムハンマドのメッカからメディナへの移住)の14か月後のラビーウ・アルアーヒル月に生まれた。ある伝承者によれば、ヒジュラ後にアンサールのあいだで最初に生まれた子であったという。父のバシール・ブン・サアドはムハンマドの有力な教友で、母のアムラ・ビント・ラワーハは、同じくアンサールの教友アブドゥッラー・ブン・ラワーハの姉妹であった。
第一次内乱の時代には、カリフ・ウスマーンの死の復讐に強くこだわり、カリフ・アリーの声高な反対者であった。シリア総督ムアーウィヤの側に立ち、アンサールの多くがアリーに味方するなかで目立つ存在となった。657年のスィッフィーンの戦いに加わり、659年にはユーフラテス川の西、ヒートの南の砂漠地帯にあるアイン・アル=タムルで、アリー軍の守備隊を攻撃する遠征を率いたが、撃退された。ムアーウィヤは661年にカリフとなった。ヒムスの軍管区の総督アブドゥッラフマーン・ブン・ハーリドが666年に亡くなったのち、ヒムスに住んでいたヌウマーンはその後任に任じられた。679年にはクーファの総督に任命された。680年にムアーウィヤが死んで子のヤズィード1世が継ぐと、ヤズィードはウバイドゥッラー・ブン・ズィヤードを代わりに据えた。理由の一つは、フサイン・ブン・アリーのために支持を集めていたムスリム・ブン・アキールの反ウマイヤ家の動きに対し、ヌウマーンの対応が手ぬるかったことだとされる。682年にはヤズィードの命でメディナへ遣わされ、アンサールをカリフ政権になだめて従わせようとしたが、支持を得られなかった。
ヤズィードの死後、ヌウマーンはメッカを拠点とする反ウマイヤ家のカリフ、アブドゥッラー・ブン・アル=ズバイルを承認した。ズバイルは彼を以前のヒムス総督に任じた。684年のマルジュ・ラーヒトの戦いで、ヌウマーンはヒムスの守備隊からシュラフビール・ブン・ズィル=カラーゥとそのヒムヤル族の兵を、ダッハークの救援に送った。
ダッハーク率いるカイス系の部族が、ウマイヤ家を支持するカルブ族に敗れたとの知らせを受けると、ヌウマーンは妻のナーイラ・ビント・ウマーラと子らを連れてヒムスから逃げた。ナーイラは以前ムアーウィヤの妻であった人である。しかしヌウマーンは、ヒムスの守備隊の者たちに追われて殺された。ヒジュラ暦64年ズー・アル=ヒッジャ月、西暦では684年8月のことであった。妻と子らは難を免れ、妻の部族であるカルブ族の保護下に入った。
娘の一人アムラは、アリー家を支持するクーファの支配者ムフタールに嫁いだ。687年にムフタールがズバイル側の軍に討たれると、夫を非難しなかったため投獄され、処刑された。その知らせを聞いた息子のアバーンは処刑人に襲いかかって捕らえられたが、のちに釈放された。別の娘ウンム・アバーンは、のちにハッジャージュ・ブン・ユースフに嫁いだ。子孫のうち少なくとも三人が8世紀半ばにハディースの伝承者となり、一族は744年の第三次内乱でカリフ、ワリード2世を軍事的に支えた。孫のアブドゥッサマド・ブン・アバーンは、ヤズィード3世の即位後にクーファの副総督に任じられた。中世のアラブの地理学者によれば、マアッラト・アル=ヌウマーンの町は彼をたたえて名づけられたという。
同じ年に亡くなった人物
- 駱賓王 (684年没)
- Aldegund (684年)
- 'Abd Allah ibn 'Amr ibn al-'As (684年没)
同じ地域に関係する人物
- Remi Ochlik (2012年没)
- プトレマイオス6世 (紀元前145年没)
- ヨタピアヌス (249年没)
- アンティオコス1世ソテル (紀元前261年没)
- ハーリド・アスアド (2015年没)