HISTORICAL PERSON · 1819年没

カルロス4世 (スペイン王)

ブルボン朝のスペイン国王で、在位は1788年から1808年。若い頃は農村で力自慢の男たちとレスリングを楽しむ体格の持ち主だった。

生涯
1819年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
イタリア共和国(ポルティチ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

カルロス4世は、ブルボン朝のスペイン国王で、在位は1788年12月14日から1808年3月19日までである。1748年11月11日に、ナポリ王だった父カルロス7世(のちのスペイン王カルロス3世)と、ポーランド王アウグスト3世の娘である母マリア・アマリアの子として、ナポリ近郊のポルティチ王宮で生まれた。7番目の子で、兄フィリペは生まれつきの知的な障害とてんかんがあって王位に就けず、彼が王位継承者として認められた。1759年に父がスペイン王となると、家族とともにスペインに移った。

母の血統から立派な体格と強い体力を受け継ぎ、若いころは農村で屈強な男たちとレスリングをするのを好んだ。知性の面では優れた君主だった父に似ず、鈍感で、人が好すぎると見られており、父は話すたびに「カルロス、お前はバカだな」と言ったという。従妹のパルマ公女マリア・ルイサとの結婚が決まったと父に告げられ、女性と付き合った経験がなく途方に暮れると、父は「バカだな。女なんかみんな同じだ」と一喝したのみだった。1765年9月に結婚し、14人の子が生まれ、7人が成人した。王妃は、ゴヤを含む多くの人から王を完全に支配する性悪で粗野な女と見られた。皇太子夫妻の宮廷は、1770年代には政治的な陰謀の中心となり、アランダ伯が支持を求めて近づいたが、ここで頭角を現した若い将校マヌエル・デ・ゴドイが夫妻の信頼を得た。

1788年に即位したが、真剣に取り組んだのは狩りで、公務は王妃とお気に入りのゴドイに任せた。ゴドイは事実上、王妃と執務室を自分のものにし、王は自分の生活全てをゴドイに預けた。フランス革命への恐怖から、父の改革を押し進めようとする政党と対立するゴドイを助け、政治の成り行きにはほとんど口を挟まず、言いなりでしかなかった。1793年から1795年のフランスとの戦争は、スペインにとって惨憺たる結果になった。1796年にはフランス共和国と同盟して、英国との戦争を招いた。1803年に娘マリーア・ルイーサが天然痘にかかると、王は医師バルミスに国費でスペイン植民地へワクチンを運ぶよう指示した。王権神授説を信じ、自分が神聖な存在だという信念を持ったが、王権は王妃と寵臣のなすがままで、スペインはフランスから属国程度に扱われた。大陸封鎖を支援したが、トラファルガーの海戦で艦隊を失った。1807年のナポレオンのイベリア半島侵入を許す密約は国民の怒りを買い、アランフエスの暴動を導いた。

息子のフェルナンドがナポレオンにゴドイを辞めさせるよう訴えたと聞かされた王は、ゴドイの擁護に回った。1808年3月にアランフエスで民衆が蜂起すると、19日に退位し、フェルナンド7世が即位した。しかし10万の兵をスペインに送っていたナポレオンは、彼を信用しなかった。フランスに逃れてナポレオンに囚われ、息子に殴りかかりたい思いを抑えるのに苦しんだ。フェルナンドも退位を余儀なくされ、ナポレオンの兄ジョゼフがスペイン王となった。カルロスはフランス皇帝から住まいを与えられ、妻とゴドイに囲まれて残りの人生を過ごし、1819年1月20日にローマで没した。

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