HISTORICAL PERSON · 685年没

マルワーン1世

ウマイヤ朝第4代カリフ。684年に部族会議で選ばれ、マルジュ・ラーヒトの戦いでイブン・アッ=ズバイル側を破り、エジプトなどの支配を回復した。750年まで続くマルワーン家の祖となった。

生涯
685年没
死亡地
シリア共和国(ダマスカス県 / ダマスカス)
出生地
サウジアラビア王国(メッカ)
出典
世界地図
シリア共和国(ダマスカス県)

伝記

マルワーン1世は、684年から685年にかけて一年に満たない期間、在位した第4代のウマイヤ朝カリフである。生年はヒジュラ暦2年または4年(西暦623年または626年)、没年月は685年の4月または5月とされる。イスラーム世界の第二次内乱のなかで、カリフの地位を失ったスフヤーン家に代わって、ウマイヤ朝の王家となるマルワーン家を興した人物であり、この家は750年まで政権を保った。

父はウマイヤ家の人で、母はアーミナ・ビント・アルカマといった。ウマイヤ家は、メッカを支配した多神教徒のクライシュ族のなかでも最も強力な一族だった。クライシュ族は預言者ムハンマドによるメッカ征服の後、630年ごろにイスラームへ改宗した。ムハンマドを知る存在だったため、マルワーンは後にサハーバ(教友)の一人に数えられた。従兄弟にあたる正統カリフのウスマーンの治世には、北アフリカ中部のカルタゴのビザンツ帝国軍に対する作戦に加わって多くの戦利品を得た。これが彼の莫大な富の基盤になり、一部はマディーナの不動産に投じられたと考えられている。その後、ペルシア南西部ファールスの総督を務め、マディーナでカリフの書記官となり、財務の監督にも携わったらしい。ある歴史家は、彼がクルアーンの正典化の作業を助けていたのは間違いないと述べている。

656年、ウスマーンの縁故主義的な政策に対する不満が高まり、反乱者の集団がマディーナに入った。マルワーンは武力で応じるよう進言したが、ウスマーンは聞き入れず、最大の集団だったエジプト人と和解した。ところが、エジプトへ帰る途中の反乱者の手に、エジプト総督に反乱者への措置を命じるウスマーンの名の手紙が渡り、彼らは6月に引き返して邸宅を包囲する。ウスマーンは手紙を知らないと主張したため、実際にはマルワーンが作ったのではないかとも考えられている。だが、後の伝承が彼をウスマーン暗殺の身代わりに仕立てた可能性を指摘する歴史家もいる。マルワーンは命令に背いて邸宅を守るために戦い、首に重傷を負った。伝承では乳母のファーティマに助けられたという。直後にウスマーンは殺害された。

ウスマーンの死後にカリフとなったアリーとアーイシャの対立から起こったラクダの戦いでは、アーイシャ側に立って戦った。この戦いでアーイシャの側にいたタルハを、マルワーンが矢で射殺したと伝える説明もある。しかし、タルハはアリーの支持者に殺されたとする説もあり、ウマイヤ朝に批判的な史料による作り話だとみる歴史家もいる。敗れた後はアリーに忠誠を誓って許され、シリアのムアーウィヤのもとへ向かい、657年のスィッフィーンの戦いにも参戦した。ムアーウィヤがカリフになると、東アラビアの総督を経て、661年から668年と674年から677年の二度にわたりマディーナ総督を務めた。

683年11月にヤズィード1世が没し、メッカのイブン・アッ=ズバイルが自らをカリフと宣言して蜂起すると、マルワーンはマディーナを追われてシリアに逃れた。684年にムアーウィヤ2世が没したのち、ウマイヤ朝を支持する部族の会議で候補者に名乗り出て、部族の有力者たちによりカリフに選ばれる。同年8月のマルジュ・ラーヒトの戦いでイブン・アッ=ズバイル派を破り、エジプトやパレスチナなどの支配を回復した。イラク再征服のために派遣した軍の行方を見届けないまま、685年の春に没する。長男アブドゥルマリクを後継者に指名していた。反ウマイヤ朝の伝承は彼を無法者と非難したが、歴史家は、有能で決断力に富み、以後65年続く支配の基礎を築いた人物だと評している。

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