伝記
イブン・タイミーヤは、中世シリアのハンバル派のイスラーム法学者であり、思想家である。一二五八年または一二六三年に、シリア北部のハッラーンで生まれ、一三二八年九月二十六日に没した。ハンバル派法学者の家に生まれ、幼いころから学問に励んだが、モンゴル軍がハッラーンに迫るという噂が広がると一族は町を離れ、一二六七年にダマスカスに移った。
父アブド・アル=ハリームを師としてイスラーム法学とハディース学を修め、十七歳でファトワー(法的見解)を出せるようになったという。一二八四年に父が没すると跡を継ぎ、ダマスカスのスッカリーヤ学院で教え、翌年にはウマイヤ・モスクでクルアーン解釈の講義を始めた。一二九二年から翌年にかけての大巡礼に参加し、目にした儀礼の数々に違和感を抱いて、のちにそれらを「ビドア(逸脱)」として論じる論文にまとめた。若くして地位を得たために嫉妬されることが多く、攻撃的な性格も重なって、多くの学者と対立した。一二九三年には、預言者ムハンマドを侮辱したとされたキリスト教徒の弾劾を求められ、権力者の意向に反して死刑を主張し、強情さのゆえに牢に入れられた。一二九九年にはハナフィー派の学者から神の論じ方が擬人神観にあたると訴えられたが、逆に相手を論破して学識と信念の強さを知らしめたという。
一二九九年にイルハン朝の軍がダマスカスに迫ると、使節団を組織してガザン・ハンとの交渉に向かい、辛辣な物言いをしたと伝えられる。モンゴル軍が占領したのちは捕虜の解放にあたった。撤退後も、モンゴルが侵入するたびに説教壇に立って兵士や民衆を励まし、一三〇二年のラマダーン月には自ら剣を取って戦い、断食をするより食事をして戦うほうが神意にかなうというファトワーを出した。その後は神秘主義者との論戦に力を注ぎ、一三〇五年ごろには信仰の対象になっていた聖石を叩き割った。スーフィーの存在一性論を攻撃すると、反発した相手に神人同型論者と非難され、権力者と結びつく論敵のために一三〇五年にカイロで投獄された。一三〇七年に一度釈放されたが再び投獄され、一三〇九年にスルターンに復位したナースィル・ムハンマドによって釈放され、顧問官としてカイロで落ち着いた生活を送った。
やがてシャリーアの問題に関心が向かい、独自の見解でファトワーを発した。一三一八年に同じハンバル派の大法官から派の公式見解と違うファトワーを控えるよう求められ、いったんは従ったがのちに再開し、一三二〇年には命令で半年間投獄された。一三二六年、政敵が過去の聖者廟参拝を禁じるファトワーを取り上げて攻撃し、ダマスカスに監禁された。書物や紙、インクを与えられないまま、一三二八年に獄中で亡くなった。著書は五百以上とされ、クルアーン学、ハディース学、法学、神学批判など多岐にわたる。
思想では、クルアーンとスンナを第一の法源とし、神と人間の絶対的な隔たりを説いた。ギリシア哲学の影響を受けた神学や神秘主義に反対し、なかでもイブン・アラビーの存在一性論を強く拒絶した。ただしスーフィズムそのものは否定せず、禁欲と信仰に生きるスーフィーは高く評価した。指導者がシャリーアを守らない国家に対するジハードを認めるファトワーも出している。異端とみなす学者も多い一方、同時代には敬意を抱く者も多く、その拘禁に反発した暴動が起きたという。没後しばらくは省みられなかったが、近世にサラフィー主義者によって再評価され、ワッハーブ派など改革運動に影響を与えた。
同じ年に亡くなった人物
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同じ地域に関係する人物
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