HISTORICAL PERSON · 686年没

元暁

新羅の華厳宗の僧で、新羅浄土教の先駆者。唐へ渡る途中、骸骨に溜まった水を飲んで悟り引き返した。帰国して華厳学の研究に励み240巻もの著作を残し、弟子の審祥が日本へ華厳宗を伝えた。

生涯
686年没
死亡地
—
出生地
大韓民国(慶尚北道 / 慶山市)
出典
世界地図
大韓民国(慶尚北道)

伝記

元暁は、617年に生まれ686年に没した新羅の僧である。東アジア仏教を代表する思想家、注釈者の一人であり、朝鮮仏教で最も多くの著作を残した学者とされる。俗姓は薛、名は誓幢または新幢といい、「暁」の名には夜明けの意味があるという。和諍国師の諡号を持ち、新羅浄土教の先駆者でもある。押梁郡(現在の慶尚北道、慶山にあたる)に生まれ、29歳のときに皇龍寺で出家した。興輪寺の法蔵に華厳を学び、教学と論争に優れていたといわれる。650年には義湘とともに唐へ渡ろうとしたが、高句麗の軍に阻まれて果たせなかった。

最もよく知られる逸話は、661年の二度目の渡唐の試みにまつわるものである。二人が旅の途中で雨に降られ、土の祠と思って泊まった場所で、元暁は夜に喉の渇きを覚え、枕元にあった器の水を飲んで生き返る思いをした。翌朝、そこが古い墓であり、器が骸骨にたまった水だったと知る。甘露と思った水が朝には吐き気を催すものに変わったことから、元暁は、物事の見え方は心が決めるのだと悟った。「心のほかに法はないのに、どうして別のところに求めよう。私は唐へは行かない」と述べたと伝えられ、そのまま引き返したとされる。真理は遠くにあるものではなく、世の中の認識は心にこそあるという悟りであった。この体験は唯識の「唯心」の考えに通じるものと説明される。

帰国後は華厳学の研究に専念して著述に打ち込み、その著作は80点余り、240巻に及ぶ。『大乗起信論疏』『金剛三昧経論』『大般涅槃経』の注釈など、仏性を説く経典の注釈がとくに影響力をもち、朝鮮、中国、日本で広く尊ばれた。唐の華厳の学僧である法蔵、李通玄、澄観らも彼の著作の影響を受けたといわれる。日本でも凝然や、華厳宗の僧である善珠、常騰らが影響を受けた。『十門和諍論』『二障義』『判比量論』なども著した。なお『遊心安楽道』は、近年の研究で元暁に仮託された偽撰書の可能性が指摘されている。

ある日、元暁が街で「誰か柄のない斧をくれるなら、私は天を支える柱を切ろう」という意味の歌を歌った。誰も意味が分からなかったが、武烈王だけはその意を悟り、未亡人であった瑤石宮の公主を元暁に嫁がせた。公主は薛聡を産み、薛聡は新羅の優れた儒者の一人とされる。この出来事ののち、元暁は僧の身分を離れ、「小姓居士」と名乗った。芸人から与えられた瓠に「無碍」と名づけ、歌や踊りを通じて仏教を庶民に広めた。村や町を巡り、酒場や遊郭にも出入りし、庶民の家に泊まったと伝えられる。正統の仏教からは好ましくない振る舞いとされたが、歌や踊りは衆生を救うための方便と受け止められた。山や川辺で一人暮らし、著述や講義を行い、念仏を唱えるよう人々に教えることもあった。こうして元暁は、朝鮮で民衆に慕われる英雄となった。晩年には、朝鮮で唯一とされる川辺の寺、新勒寺を600年代後半に創建したともいわれる。義湘との協力は、朝鮮の華厳宗が有力な流れとして確立する端緒になったと考えられている。

元暁は686年、穴寺に滞在中に70歳で没したとされ、遺骸は息子の薛聡によって芬皇寺に葬られた。芬皇寺には、元暁を祀る普光殿と研究施設がある。元暁は新羅の三大仏教学者の一人に数えられる。弟子の審祥が日本に華厳宗を伝えたため、東大寺をはじめとする南都の諸寺院でもてはやされた。高山寺の『華厳縁起』には、元暁にまつわる数々の伝説が語られている。

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