伝記
ワラットン(ワラット、ヴァラトンとも)は、フランク王国のネウストリアとブルグンドの宮宰を二度務めた人物である。686年に没した。
出自は正確には分かっていない。ネウストリアの有力な家門の一つに属し、宮宰エルキノアルドの一族と姻戚関係にあった可能性があるとされる。所領はルーアン近郊にあった。同時代の文書への初出は659年で、ネウストリアとブルグンドの王クロタール3世の勅許状に、伯の肩書で署名が上位に並んでいる。このことから、すでに高い地位にあったことがうかがえる。663年の勅許状では、王の側近の一人として名が見える。
680年または681年、宮宰エブロインがアウストラシア遠征の準備中に殺害された。犯人は国庫の役人エルメンフレドで、財を持ち出してアウストラシアの宮廷に逃げ込んだ。ネウストリアの貴族たちは集まり、エブロインの縁者であるワラットンを後継に選んだ。権力の弱い人物を選ぶことで、自分たちの独立を保とうとしたのだとされる。ルーアン周辺の大土地所有者でもあった。王テウデリク3世の承認があり、友人であったルーアン大司教の聖オワンの働きが大きかったとみられている。フランクの法に従えば、前任者の殺害に報復し、犯人をかくまうアウストラシアを攻めるのが筋であった。しかしワラットンはエブロインの路線を捨て、アウストラシアを治める宮宰のピピン(エルスタルのピピン)と和平を結び、人質を受け取った。両国は宮宰どうしは敵対しがちでありながら、同じ王を戴いていた。
この和平はすべての貴族に歓迎されたわけではなかった。ワラットンの子ギスルマールを中心に反対派が集まり、ギスルマールは682年または683年に父を退けて宮宰となった。ワラットン自身は息子に後を継がせるつもりだったとも伝えられるが、息子は待ちきれず陰謀を企てたとされる。ギスルマールはアウストラシアとの戦いを再開し、684年にナミュール付近でピピンを破ったが、まもなく急死した。ワラットンは宮宰に返り咲いた。この二度目の在任で宮廷での地位を固め、権力はネウストリアのみならずブルグンドにも及んだとみられる。オワンはケルンに派遣され、その仲介でピピンとの新たな和平が結ばれた。『オワン伝』は、ワラットンを副王と呼んでいる。年代記は彼を「輝かしい」人物と呼び、別の年代記は精力的で名高い人物と述べている。
ワラットンは妻アンスフレデとの間に子をもうけ、ギスルマール、アダルトルード、アンストルードの名が挙げられる。アンストルードは宮宰ベルカールの妻となり、のちにアウストラシアの宮宰ピピンの長男ドロゴと結婚した。ワラットンは686年に没し、寡婦の働きかけで、娘婿のベルカールが新たな宮宰に選ばれた。
同じ年に亡くなった人物
- ウマーマ・ビント・アビー・アル=アス (686年)
- ヨハネス5世 (ローマ教皇) (686年没)
- 元暁 (686年没)
- 天武天皇 (686年没)
- ウバイドゥッラー・ブン・ズィヤード (686年)
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