伝記
ミュロンは、古代ギリシアの彫刻家で、青銅像の名手として知られる。紀元前480年ごろ(485年ごろとする説明もある)、アッティカとボイオティアの境にあるエレウテライに生まれた。両親はボイオティア人だったとされるが、エレウテライは当時アテナイの管轄下にあり、彼はおそらくアテナイ市民だったと考えられる。パウサニアスも彼を「アテナイのミュロン」と呼ぶ。伝承では、アルゴスへ行って彫刻家アゲラダスの弟子となった。この師にはすでにペイディアスが学んでおり、ミュロンには同門のポリュクレイトスがいて、やがて互いに競い合う間柄になったという。師からは筋肉と動きの表現への関心を受け継いだとされる。
初期に知られる作品は競技者の像である。オリンピア競技の勝者であるスパルタの走者キオニスの像や、ペッラナのピリッポスというボクサーの像が挙げられる。紀元前457年より前には、アイギナの都市から女神ヘカテの木像を依頼されたという。つま先立ちで走る走者ラダスの像や、紀元前456年のパンクラティオンの勝者であるクレオナイのティマンテスの肖像も手がけた。デルポイの五種競技者たちの像や、馬の競技で勝ったリュキノスの像二体も、パウサニアスや大プリニウスが彼の作としている。
最も名高い「円盤投げ」は、ミュロンが師と袂を分かったともいわれる紀元前450年ごろの作で、同じころ、ポリュクレイトスは「槍を持つ人」を作っていた。ミュロンはアテナイに拠点を置き、ポリュクレイトスはアルゴスにとどまったという。ルキアノスは円盤投げを、投げる姿勢にかがみ、円盤を持つ手のほうへ顔を向け、反対の足を軽く曲げて、投げ終えて立ち上がる構えとして詳しく描いた。この記述のおかげで作品は多数の大理石の複製の中から見分けられ、ローマのマッシモ宮にあるランチェロッティの像がとくに知られる。原作は現存せず、彼の像は古代の複製や壺絵の図像を突き合わせることでしか知られない。
彼は競技者にとどまらず、神々や英雄、動物の像も作った。エフェソスのアポロン像は、のちにマルクス・アントニウスがローマへ持ち帰り、アウグストゥスが返したとされ、アグリゲントゥムのアポロン像はウェッレスに奪われた。サモス島のヘライオンにはゼウス、アテナ、ヘラクレスの巨像三体が同じ台座に置かれていたが、のちにマルクス・アントニウスに持ち去られ、アウグストゥスが返還した。ただしゼウス像だけはカピトリウムに移された。ほかにアテナとマルシュアスの群像、ヘリコン山のディオニュソス像、アテナイのエレクテウス像、ペルセウスがメドゥサを討つ像、ミノタウロス像などが伝わる。動物では牝牛の青銅像が古代でもっとも有名で、もとはアクロポリスにあり、写実を称える多くの警句が詠まれた。迷い出た子牛が青銅に乳があると思い込んで死んだ、という詩もある。
ミュロンは多作で、大プリニウスは彼をライバルのポリュクレイトスより「多産」と記している。長生きして豊かだったとされ、当代随一の高級遊女ライスと親しくしたとも伝わる。没年は前445年とする記述と、前420年ごろとする記述があり、確かでない。後世には、メリメの小説『イールのヴィーナス』が、発見された女神像の作者としてミュロンの名を登場させている。
同じ年に亡くなった人物
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同じ地域に関係する人物
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- ブルーノ・ブロイアー (1947年没)