伝記
ジョゼフ・フーシェは、フランス革命、第一帝政、復古王政の政治家である。ナポレオン体制では警察大臣を務め、タレーランとともに体制の主要人物となった。近代的な警察機構の創始者であり、秘密警察を駆使して政権中枢を渡り歩いた謀略家として知られる。権力者に取り入りながら一定の距離を保って激動の時代を生き抜き、「カメレオン」の異名を持った。1759年5月21日、ナント近郊のル・ペルランに生まれた。父は船員でフーシェにも後を継がせるつもりだったが、体が弱く勉学の才があったため、ナントのオラトリオ会の学校で学んだ。教師を志してパリの修道会の施設に送られ、ニオール、ソーミュール、ヴァンドーム、ジュイイ、アラスなどの学寮で教える役を務めた。アラスでは、カルノーや無名の弁護士ロベスピエールと交わり、その妹と交際したとされる。1788年にフリーメイソンに加入した。
1790年10月、革命の原理を唱えるのを抑えようとオラトリオ会によってナントの学寮に移されたが、かえって民主主義者になり、地元のジャコバン・クラブの有力会員となった。1792年5月に学寮が解散すると、大きな誓願は立てないままオラトリオ会を離れた。8月に王政が倒れると、国民公会の議員に当選してパリに向かった。当初は同郷のジロンド派に近い穏健共和派だったが、ルイ16世の裁判で処刑票を投じ、これを契機にジャコバン派の山岳派に鞍替えした。国王殺しの罪は後に尾を引く。1793年には、ヴァンデの反乱の鎮圧に全権の代表委員として派遣され、冷酷さで名を上げ、ニエーヴル県の派遣委員となった。ショーメットとともに非キリスト教化運動を始め、教会を荒らして財宝を国庫に送り、墓地の門に「死は永遠の眠りである」と刻ませた。同年のうちに私有財産を禁じる法令を出した。11月にコロ・デルボワとリヨンに赴いて、リヨンの大虐殺を指導した。
その後ロベスピエールと対立し、テルミドール9日のクーデターに参加した。情報収集能力を評価されて総裁政府の警察大臣を務めた。ブリュメール18日のクーデターでナポレオンの政権奪取に貢献し、統領政府でも警察大臣に就いた。1800年の暗殺未遂は阻止できなかったが、入念な捜査でカドゥーダルの陰謀を暴き、王党派を一網打尽にした。終身制に反対して一時失脚したが、アンギャン公事件で再評価され、帝政下でも警察大臣、元老院議員を歴任した。総裁政府時代から密偵を雇い、国家のあらゆるものを監視させ、ナポレオンの妻ジョゼフィーヌまで買収して、私生活まで探っていたといわれる。ナポレオンは、その情報収集力を高く評価し、用事があるときは秘書官に呼びに行かせた。これは格別の配慮であった。
1808年にオトラント公爵に叙されたが、タレーランと同様に帝国の崩壊を予想し、次の政権を構想し始めた。翌1809年、イギリス軍がベルギーに迫ると、独断で国民軍を編成し、ベルナドットを司令官に据えた。この越権行為と対英和平交渉が露見して辞職した。1815年の百日天下では再び警察大臣となり、ナポレオンの退位後に臨時政府の首班としてルイ18世をパリに迎えた。王政復古で短期間警察大臣を務めたが、国王殺しを忘れない王党派に迎えられず、マリー・テレーズは同席しなかった。同年8月に失脚して、ドレスデン駐在大使に左遷され、1816年1月に国外追放となった。プラハ、リンツ、イタリアを渡り歩き、1820年12月にトリエステで死んだ。晩年は平穏で、人が変わったように教会に通ったといわれる。
同じ年に亡くなった人物
- ジャン=ランベール・タリアン (1820年没)
- ウィリアム・エラリー (1820年没)
- ヴィルヘルミーネ・フォン・プロイセン (1751-1820) (1820年没)
- ジョージ3世 (イギリス王) (1820年没)
- ダニエル・ブーン (1820年没)
同じ地域に関係する人物
- ヴィクトワール・ド・フランス (1799年没)
- アルフレド・ボナーノ (2023年没)
- Fulvio Tomizza (1999年没)
- マリア・テレザ・デ・ブラガンサ (1874年没)
- タン・モール (1899年没)