伝記
マヌエル・ベルグラーノは、1770年6月3日にブエノスアイレスで生まれ、1820年6月20日に没したアルゼンチンの政治家・軍人である。経済学者、法律家、ジャーナリストでもあった。アルゼンチン独立運動の指導者の一人で、建国の父の一人とみなされ、アルゼンチンの国旗の考案者としても知られる。自由貿易の支持者でもあった。ブエノスアイレスの5月広場にある、馬にまたがる銅像は観光名所になっている。
父ドメニコ(スペイン風にドミンゴ)・ベルグラーノ・ペリはイタリア北西部リグーリア地方のインペリア出身の商人で、スペイン王から新大陸への移住を許され、スペインやリオ・デ・ジャネイロ、イギリスに取引先を持っていた。母はマリア・ホセファ・ゴンサレス・カセロで、マヌエルは第4子である。新大陸生まれのため、本国生まれより下の階級であるクリオーリョとされた。スペインのサラマンカ大学に留学して自由主義的な貿易思想を修め、1789年のフランス革命のころ、啓蒙思想に触れた。1794年に副王領に戻り、ブエノスアイレスの著名なクリオーリョとなったが、新しい政治・経済の理念を広めようとして強い抵抗にあい、これが植民地体制からの自治を求める動きにつながった。1801年にアルゼンチン最初の新聞を創刊した。1806年には、リニエルスの指揮するブエノスアイレス市民軍に加わり、ベレスフォードの軍隊と戦った。翌年にはリニエルスらと軍事評議会を結成した。
1810年5月、マリアーノ・モレーノらと愛国政権評議会を結成して副王に対し反乱を起こし、革命軍を指揮して実権を得た。そのときの第一評議会の委員に選ばれ、1810年から翌年にかけて、使節としてパラグアイへ遠征したが、パラグアリやタクアリの戦いに敗れた。この遠征は結果的にパラグアイが1811年5月に独立するきっかけとなった。ロサリオの近くで防備を固めたとき、後に国旗となる旗の図案を考案した。第一三頭政府は承認しなかったが、連絡が遅く、知らされたのは数週間後であった。1812年には青年将校を中心とする「ラウタロ結社」を結成し、北部軍の司令官となって、トゥクマンやサルタで勝利した。フフイ県の住民全員をトゥクマンへ避難させる命令も出した。1813年にはアルト・ペルーに侵攻してポトシを解放したが、ビルカプヒオ、アヨウマで連敗し、独立軍は半壊した。この責任を取って1814年に司令官を辞任し、後任にはサン・マルティンが就いた。
その後、国制を探るためイギリスへ赴き、フランス革命の迷走と挫折に影響を受け、1816年に帰国したときには立憲君主派となっていた。同年7月のトゥクマン議会では、独立宣言の起草に主要な役割を果たし、インカの子孫を立憲君主に頂く計画を盛り込んだが、ブエノスアイレス選出の議員は強く反対し、履行されることはなかった。この議会は彼の旗を国旗として承認した。再び北部軍の指揮を執ったが、1820年1月に部隊が反乱を起こした。同年、水腫のため50歳で死去し、最後の言葉は「ああ、わが祖国よ」だったという。彼の死んだ6月20日は「国旗の日」として祝日になっており、現行の1万ペソ紙幣をはじめ、紙幣の肖像にも用いられている。
同じ年に亡くなった人物
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