伝記
カルロス・サアベドラ・ラマスは、1878年11月1日にブエノスアイレスで生まれたアルゼンチンの学者、外交官、政治家である。1936年度のノーベル平和賞を受賞し、ラテンアメリカ人として初の受賞者となった。名門の貴族の家に生まれ、曾祖父は五月革命後の最初の政府評議会(第一次評議会)の議長を務めたコルネリオ・サアベドラ、祖父はブエノスアイレス州の知事を務めた人物だった。ブエノスアイレス国立学院で4年学び、のちにブエノスアイレス大学で法律を修めて弁護士となり、学位論文「ブエノスアイレス市の自治制度」は最優秀賞を得た。大学から法学の博士号も受けている。妻は、のちのアルゼンチン大統領ロケ・サエンス・ペーニャの娘ロサで、息子を一人もうけた。
その後は教育者として活躍した。ラプラタ国立大学で法学と社会学の講師となり、のちに教授となった。ブエノスアイレス大学でも、財政学や政治経済学、憲法などを教えた。学者としての業績は主に労働法に関するもので、労働の扱いについて国際的な枠組みが必要だと訴えた。国際労働機関の設立にも関わり、アルゼンチン国内の労働法の整備にも貢献した。弁護士事務所では労働法と国際法を専門とし、1916年7月にはアメリカ社会科学会議の開会を担い、そこではウィルソン米大統領らの思想の影響が明らかだったという。
1906年に政治家に転身し、1908年には30歳前に国会議員に選ばれ、1915年まで務めた。保守的な考えを持ちながら、他の潮流の議員とも良好な関係を築いたとされる。1915年には教育大臣に就任し、翌1916年7月9日には独立百周年の記念行事に大統領の代理として出席した。1928年には、ジュネーブで開かれた第11回国際労働会議の議長に、アルゼンチン人として初めて選ばれている。
1932年から1938年にかけて、アグスティン・ペドロ・フスト大統領の下で外務大臣を務め、その時期はアルゼンチン外交史上、最も活発で重要な時期のひとつと評された。石油が見つかったグランチャコをめぐって1932年6月からパラグアイとボリビアが争ったチャコ戦争では、調停にあたり、ブラジル、チリ、ペルー、ウルグアイ、アメリカが加わった平和会議を主宰した。彼はこの地域へのアメリカの介入を避けたともされる。1935年6月12日にブエノスアイレス議定書が結ばれて停戦の合意に至り、戦争は終結した。この功績は、「平和一般のための活動」として評価された。ノーベル平和賞の受賞理由となったのは、こうした功績に加え、ラテンアメリカ不戦条約の提唱である。この条約は21か国が署名し、南米で国同士が戦争になった場合、他国が特別委員会を組織して停戦にあたり、停戦まで両国に外交的、経済的圧力をかけるという画期的なもので、多くの国で批准された。1936年には汎アメリカ会議の議長となり、国際連盟の総会議長にも選出された。のちに、ブエノスアイレスの国立法律社会科学アカデミーの会長も務めた。1941年から1943年にはブエノスアイレス大学の総長を務め、1946年まで教授として在籍した。1959年5月5日、生地ブエノスアイレスで没した。
同じ年に亡くなった人物
- エイトル・ヴィラ=ロボス (1959年没)
- アンリ=ピエール・ロシェ (1959年没)
- ステパーン・バンデーラ (1959年没)
- ムタラ3世 (1959年没)
- エミル・フランチシェク・ブリアン (1959年没)
同じ地域に関係する人物
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- Noemi Simonetto (2011年没)
- Olga Orozco (1999年没)
- Hector Facundo (2009年没)
- オラシオ・アカバリョ (2022年没)