伝記
アブドゥッラー・ブン・アッバース(通称イブン・アッバース)は、619年頃から687年頃にかけて生きたイスラーム初期の人物で、預言者ムハンマドの従弟にあたる。クルアーン解釈学者(ムファッシル)として最も偉大な人物と見なされている。父はムハンマドの叔父アッバース・ブン・アブドゥルムッタリブ、母はヒラール族のルバーバで、ムハンマドの妻となったマイムーナは叔母にあたる。ヒジュラ(ムハンマドのメディナ移住)より前にメッカで生まれ、ムハンマドが没したときにはまだ13歳の少年であったという。
ムハンマドの存命中は、しばしばその傍らにあって、礼拝の前の清めの水を運び、集まりに加わり、遠征にも従った。ムハンマドは彼のために「神よ、イブン・アッバースに知恵を授け、解釈を教えたまえ」と祈ったと伝えられる。ムハンマドの死後は、メッカで形成された初期の解釈学派の中心となり、教友のなかでも特にウバイイ・ブン・カアブら年長者から伝承を学んだ。クルアーンの解釈とムハンマドの遠征に深く通じていたため、広い知識を「海」にたとえて「アル=バフル」と呼ばれた。
ムハンマドの死後、サキーファでの後継者問題の際には、弟のファドルとともにハーシム家の立場を守り、アリーこそが正統な後継者だと考えて、当初アブー・バクルへの忠誠を保留したとされる。しかしカリフ・ウマルの時代には年長の教友たちのあいだで重んじられるようになった。ウマルがバドルの戦いに加わった古参の教友たちの集まりにこの若者を加えたとき、不満を述べる者がいたため、ウマルは第110章「援助と勝利が来たとき」の意味を皆に問うた。年長者がメッカ征服の勝利を述べたにとどまったのに対し、イブン・アッバースはこの章がムハンマドの死の近いことを告げるものだと答え、ウマルも同じ理解であると認めた。
ウスマーンの時代には軍事・行政にも加わった。647年にはアブドゥッラー・ブン・サアドの率いる北アフリカ遠征に従い、スフェトゥラの戦いに至った。この遠征では、ハーシム家の有力者やクライシュ族の若者たちとともに戦った。650年にはクーファ総督サイード・ブン・アルアースが率いるタバリスタン遠征に参加し、ハサン、フサイン、アブドゥッラー・ブン・ウマルらと行軍した。軍はアブラシャフルを攻略し、ジュルジャーンでは20万ディルハムの貢納を条件に和約を結んだが、沿岸の要害タミーサでは激しい抵抗を受けたのちに制圧したという。ウスマーンへの不満が高まりエジプトやクーファの反乱者が邸宅を包囲すると、ウスマーンは彼をその年のメッカ巡礼の指揮者に任じた。以前に政治的な不満を抱いていたにもかかわらず、彼は包囲の際にウスマーンを守る側に加わり、ウスマーンは暗殺された。
第一次内乱では従兄のカリフ・アリーを一貫して支持し、アリーのもとでバスラの総督を務めたのち、メッカに退いた。ムアーウィヤ1世の治世にはヒジャーズに住み、しばしばダマスクスへ赴いた。680年にムアーウィヤが没すると、ターイフに移り、687年頃にそこで没した。早くから他の教友たちから知識を集め、講義を行い、注釈書も著したとされ、伝承の知識とクルアーンの批判的な解釈によって高く評価された。
同じ年に亡くなった人物
- Qays ibn al-Mulawwah (688年)
- Waltrude (688年)
- ワンバ (688年没)
- Benedict Biscop (688年(推定))
- Abu al-Aswad al-Du'ali (688年没)
同じ地域に関係する人物
- Sufyan ibn `Uyaynah (814年没)
- ザイン・アル=アービディーン・ベン・アリー (2019年没)
- Haciye Hosyar Kadin (1849年没)
- マシャイル・ビント・ファハド・アル・サウード (1977年没)
- Juhayman al-Otaybi (1980年没)