伝記
クロード・ルイ・ベルトレーは、サヴォイア公国およびフランスの化学者であり医師である。1748年12月9日に生まれ、1822年11月6日に没した。1804年にフランスの元老院の副議長となった。
当時サヴォイア公国の領土だった、アヌシー近郊のタルロワールで生まれた。ブルジョワの家の出で、父は公証人であり、その父や祖父も同じ職業だった。9人の子の6番目で、成人したのは本人と妹だけである。公証人の父と、法律家の家の出の母という家の伝統とは違い、医学を志した。アヌシーの学寮で中等教育を受け、トリノ大学で4年間医学を学んだ。家族が経済的に助けなかったため、王の奨学金を得て、1768年に博士号を取得した。ピエモンテに4年間滞在したのち、パリに出た。オルレアン公の首席医師に自分を売り込み、公の愛人モンテッソン夫人の医師に任命されて、気に入られた。マッケルや、ビュケの講義で化学を学び、宮殿の中にある小さな実験室を与えられて、プリーストリー、シェーレ、ラヴォアジエらの最新の実験を再現した。1776年から多くの論文を発表して知られるようになり、1780年にビュケの死で空いた席に、科学アカデミー会員として選ばれた。1784年にはゴブラン織の製作所の染色の責任者となり、1792年には造幣委員会、1794年には農業委員会の委員となった。1794年に理工科学校の教授となり、ゲイ=リュサックはその助手であった。
ラヴォアジエやほかの化学者とともに、化学物質の命名法や名前の体系を決め、それは現代の化合物の名称の体系の基礎となっている。染料や漂白剤の研究も行い、塩素に脱色する性質があることを発見して、塩素を漂白に使った。アンモニアの組成も決定した。逆反応、ひいては化学平衡の特性を認識した初期の化学者の一人で、1803年の『化学静力学試論』で、化学平衡の概念を初めて定義した。強力な酸化剤の塩素酸カリウムは、ベルトレーの塩として知られている。
フランスの化学者ジョゼフ・プルーストとは、定比例の法則の妥当性について長く論争した。プルーストは、化合物を構成する元素の割合は製法にかかわらず一定だとしたが、ベルトレーは、反応前の物質の比率によって変わるとした。プルーストは正確な測定で自説の正しさを証明したが、化学界の権威だったベルトレーがいたため、すぐには受け入れられなかった。受け入れられたのは、1811年にベルセリウスが認めてからである。ただ、後にベルトレーが全くの誤りではなく、定比例の法則に従わない化合物も実在すると分かった。そうした不定比化合物は、彼をたたえて、ベルトライド化合物と名づけられた。
ナポレオンのイタリア遠征に随行し、征服地で科学と芸術の品を探す委員を、モンジュとともに務めた。その後、エジプト遠征にも科学者の一員として加わり、エジプト学士院の物理部門に入って、副議長、翌年に議長となった。1801年に国民産業奨励協会の設立にも加わり、1804年に元老院の副議長、1808年に帝国の伯爵となった。1789年に王立協会フェロー、1801年にスウェーデン王立科学アカデミーの外国人会員に選ばれた。晩年は、アルクイユの家で、ラプラスとともに学者の集まりであるアルクイユ会を作り、ゲイ=リュサックやビオらが加わった。1822年に同地で死去した。
同じ年に亡くなった人物
- ジャレド・インガソル (1822年没)
- ウィリアム・ピンクニー (1822年没)
- ヘーラルト・ファン・スパーンドンク (1822年没)
- ヨハン・マトイス・ベヒシュタイン (1822年没)
- ユゼフ・ヴィビツキ (1822年没)
同じ地域に関係する人物
- ルイーズ・マリー・ド・ブルボン=パンティエーヴル (1821年没)
- アンドレ・マルロー (1976年没)
- シャルル9世 (フランス王) (1574年没)
- ロジェ・カイヨワ (1978年没)
- ヘンリー5世 (イングランド王) (1422年没)