伝記
ヘンリー5世は、1386年か1387年にウェールズのモンマス城で生まれ、1422年8月31日に没したランカスター朝のイングランド王で、在位は1413年から1422年までである。父はのちのヘンリー4世、母は当時16歳のメアリー・ド・ブーンで、ヘンリー6世の父にあたる。生まれた時のイングランドは父の従兄リチャード2世の治世で、王位継承からはかなり遠く、出生日さえはっきり分かっていない。幼少期はオックスフォード大学で学んだが、1398年に父がフランスへ追放されて短期で終わり、母も亡くなっていた彼はリチャード2世に引き取られ、優遇された。
1399年に父が挙兵して上陸すると、リチャード2世は捕らえられ、父がヘンリー4世として即位した。彼はプリンス・オブ・ウェールズに叙され、同年ランカスター公にもなった。数年後には軍の一部を指揮し、1403年のグリンドゥールの反乱ではウェールズへ向かい、反乱に加わったヘンリー・パーシーを、顔に傷を負いつつも打ち破った。1408年までウェールズの鎮圧に力を注ぎ、父の健康が悪化すると、1410年からは叔父のボーフォート兄弟に助けられて実質的な支配者となった。しかし政策が父と異なり、1411年の御前会議には呼ばれなかった。フランスへの積極的な介入を望み、ブルゴーニュ派を重視したことも父から遠ざけられる原因になったが、のちに和解した。
1413年3月20日に父が没すると、翌日に王位を継ぎ、4月9日に戴冠した。即位当初から、自らをイングランドという連合国家の長と位置づけ、過去の対立を水に流す方針を明確にした。リチャード2世を改めて丁重に葬り、爵位や領土を没収されていた貴族には順次回復した。ロラード派への対処が最大の内政課題で、1414年1月にジョン・オールドカースルの反乱を未然に防ぎ、基盤を固めた。公文書での英語の使用を促し、ノルマン・コンクエスト以来350年ぶりに、個人書簡に英語を使った王だったという。
内政が落ち着くと外交に注力した。ブルゴーニュ派とアルマニャック派の双方から、相手を倒すための加勢を求められ、婚姻関係や領地割譲を提案されたが、彼は両派と交渉しながら、フランス政府がグリンドゥールの反乱を援助していた賠償などを理由に、領土割譲とフランス王位を要求した。アルマニャック派が拒むと、長期の休戦状態にあった百年戦争を再開した。1415年8月に出航して上陸し、9月に要塞を陥落させ、カレーへ向かった。追撃してきたフランス軍を10月25日のアジャンクールの戦いで破り、多くの貴族を捕虜とした。1417年8月からはノルマンディーを攻め、1419年1月にルーアンを陥落させ、8月にはパリの城外まで達した。同年9月、交渉の場で王太子の支持者がブルゴーニュ公ジャン無怖公を暗殺すると、新公フィリップ3世はイングランドと結び、1420年5月にトロワ条約が結ばれ、彼はフランスの王位継承者・摂政と認められた。6月2日にはシャルル6世の娘カトリーヌと結婚した。
1421年6月、最後の遠征に出た。弟クラレンス公がボージェの戦いで討たれていたためである。1422年5月にはモーを攻略したが、同年8月31日、パリ郊外のヴァンセンヌで、モー包囲戦の際に感染した赤痢のため亡くなった。34歳であった。数か月前に弟ジョンをフランスの摂政に任じたばかりだった。義父シャルル6世より長生きする自信があったため「次のフランス王」の取り決めをしたが、結局シャルル6世が約2か月長く生きた。遺体はウェストミンスター寺院に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- 太宗 (朝鮮王) (1422年没)
- ヨハン4世 (メクレンブルク公) (1422年没)
- バンダ・ナワーズ (1422年)
- タッデーオ・ディ・バルトーロ (1422年)
- コンスタンティン2世 (1422年)
同じ地域に関係する人物
- ジャン=ジョゼフ・エティエンヌ・ルノアール (1900年没)
- フリオ・ゴンサレス (彫刻家) (1942年没)
- クロード・ルイ・ベルトレー (1822年没)
- カトリーヌ・ソヴァージュ (1998年没)
- エミール・コール (1938年没)