伝記
ラザール・ニコラ・マルグリット・カルノーは、フランスの軍人であり、政治家、数学者である。1753年5月13日に生まれ、1823年8月2日に没した。フランス革命戦争で軍制改革を主導し、勝利の組織者と称えられた。政治的には穏健な共和主義者の立場を貫き、反対派からも尊敬されたという。著名な子孫と区別するため、大カルノーとも呼ばれる。
ブルゴーニュ地方の町ノレーで、地元の判事で王室の公証人でもあった父の子として生まれた。生家は貴族ではなかったが、旧い家柄の名門であった。14歳でオータンの学寮に入り、哲学と古典を学んだ。数学と神学も学び、その優れた成績に感心したノレー侯爵が、軍人の道を勧めた。1771年2月、百人を超える受験生の中から選ばれた12人のうち3位の成績で、メジエール王立工兵士官学校に入学し、ここでガスパール・モンジュの教えを受けた。1773年に優秀な成績で卒業し、技術将校として任官して、カレー、シェルブール、ベチューヌなど北部の守備隊に勤務した。余暇は研究と著述にあて、1784年に『機械一般に関する試論』を発表した。ベルヌーイらが示したエネルギー保存の法則を、より一般的に証明し、不完全弾性体の衝突で運動エネルギーが失われることを最初に証明した。1786年ごろ、文学サークルでロベスピエールと知り合った。
しかし平民出身では、軍の中で才能を発揮できる場は限られていた。さらに恋愛沙汰から投獄され、昇進の望みも絶たれたかに見えたが、釈放後間もなくフランス革命が勃発した。1791年、パ=ド=カレー県の富豪デュポン家の娘ソフィーと結婚して運が開け、同年10月に立法議会の議員に選ばれた。1792年4月にフランス革命戦争が始まると、軍事通のカルノーは各地へ政治委員として派遣され、補給の確立や平民出身の人材の登用に努めて、ヴァルミーの戦いの勝利の礎を作った。1792年9月に国民公会の議員に再選され、1793年8月には前線から呼び戻されて公安委員会の委員となり、軍事に疎いロベスピエールを助け、軍事問題を担当した。1日16時間以上を執務にあて、徴兵制度と軍需工場の整備、軍制改革を指揮して総力戦体制を確立し、14個軍団を創設した。10月16日のワッティニーの戦いでは、ジュールダンとともに自ら陣頭に立って勝利を収めた。
1794年に国民公会の議長となった。ロベスピエール派の恐怖政治には当初傍観的だったが、戦略をめぐって同じ委員会のサン=ジュストと対立し、派全体とも対立した。このためテルミドールのクーデターではギロチン行きを免れた。1795年10月に総裁政府が発足すると、初代の5総裁の1人となったが、1797年にフリュクティドール18日のクーデターが起こり、王党派に通じていたとの嫌疑でニュルンベルクへの亡命を余儀なくされた。亡命中は数学に没頭し、『無限小算法についての形而上学的考察』を書いた。1799年に帰国し、1800年に半年間戦争大臣を務めた。ナポレオンの帝政には共和主義者として反対し続けたが、ナポレオンは敬意を表して伯爵に叙した。護民院議員のときに発表した『位置の幾何学』は、近代幾何学の基礎の一つとされる。
1814年には、61歳で愛国心からナポレオンのもとに駆けつけ、アントウェルペン総督として終戦まで同市を守り通した。百日天下では内務大臣に就任し、敗北後は臨時政府委員となったが、再度の王政復古で追放された。マクデブルクで余生を送り、1823年に死去した。遺体は1889年にパリのパンテオンに埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
- フリードリヒ・ヴェーバー (1823年没)
- Caroline of Nassau-Usingen (1823年没)
- アンドレ=ジャック・ガルヌラン (1823年没)
- シャルル・フランソワ・デュムリエ (1823年没)
- ピウス7世 (ローマ教皇) (1823年没)
同じ地域に関係する人物
- Dorothea Maria of Saxe-Weimar (1675年没)
- カスパー・ポイツァー (1602年没)
- マリア・バルバラ・バッハ (1720年没)
- ルドルフ1世 (ザクセン選帝侯) (1356年没)
- ハインリヒ10世 (バイエルン公) (1139年没)