伝記
ハインリヒ10世は、バイエルン公をつとめた12世紀前半のドイツの有力諸侯である。「尊大公」「傲慢公」などと呼ばれた。1100年か1102年ごろの生まれとされるが、1108年ごろの生まれともいわれる。父はバイエルン公ハインリヒ9世(黒公)、母はザクセン公マグヌスの公女ヴルフヒルトで、ヴェルフ家の一員にあたり、母方ではビルング家の相続人でもあった。妹のユーディト(姉とする説もある)は、シュヴァーベン大公フリードリヒ2世(独眼公)に嫁ぎ、のちの皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)を産んだ。1126年に両親がともに亡くなり、父は死の少し前に、ヴァインガルテン修道院で修道士となっていた。ハインリヒは跡を継いでバイエルン公となり、ザクセン、バイエルン、シュヴァーベンにある一族の財産を、弟と分けた。
1127年、ハインリヒはローマ王ロタール3世の一人娘ゲルトルートと結婚した。この縁組は、ハインリヒの父がロタールを国王に推すと決めた1125年に、両家の父親どうしが取り決めていたものだった。ゲルトルートはザクセンの三つの家の財産の相続人で、夫妻にはただ一人の子ハインリヒ(のちの獅子公)が生まれた。結婚後、ハインリヒは義父の最良の同盟者となり、ロタールとホーエンシュタウフェン家のフリードリヒ2世・コンラート兄弟との戦いでは、国王側に立って戦った。フリードリヒ2世は妹ユーディトの夫、つまりハインリヒの義弟にあたる。ロタールはハインリヒが反乱を起こした家臣を従えるのを助け、1130年の半ばまでにフランケン全域を服従させた。1132年のはじめ、ロタールはロンバルディアへ向かうに当たり、ハインリヒを帝国の摂政に任じ、ホーエンシュタウフェン家のフリードリヒの動きを見張らせた。フリードリヒは1133年に降伏し、2年後に講和が結ばれた。
1136年、すでに皇帝となっていたロタールに従って、ハインリヒはイタリア遠征に加わった。翌年の春、ロタールは娘婿ハインリヒに3千の騎士を預けてトスカーナの征服に向かわせた。ハインリヒはトスカーナを手に入れ、イタリアのノルマン系の君主ロベルト・ドレンゴをカプアに復位させ、ベネヴェントを教皇の支配下に戻して、5月にバーリでロタールに合流した。こうした功績によって、ハインリヒはトスカーナ辺境伯に叙され、ザクセンの相続人にも指名された。ロタールは亡くなる少し前に、トスカーナのマティルデの土地も娘婿に与えている。
1137年12月にロタール3世が死ぬと、ハインリヒは次の国王の有力な候補となった。バイエルンとザクセンの公で、トスカーナの領地も得ていた彼を、諸侯は恐れ、強力な皇帝を嫌って、かつての敵だったコンラートを国王に選んだ。コンラート3世である。ハインリヒは新王にザクセン公位の承認を求めたが、新王は彼の強大化を恐れ、二つの公位を兼ねるのは不法だとして拒んだ。交渉は決裂し、ハインリヒは武力に訴えたが、両軍がヴェラ川をはさんで向かい合ったところで、双方の司教が仲立ちして休戦となった。ザクセンは母方の従弟アルブレヒト熊公に、バイエルンはオーストリア辺境伯レオポルト4世に与えられた。ハインリヒは1139年10月20日、クヴェードリンブルクの修道院で突然亡くなった。ハインリヒと妻ゲルトルートは、ケーニヒスルッターの聖堂参事会教会に、義父ロタール3世と並んで葬られている。
同じ年に亡くなった人物
- ジョフロワ1世 (ナミュール伯) (1139年没)
- シグル狂気王 (1139年)
- ヤロポルク2世 (1139年没)
- エヴフィミヤ・ウラジミロヴナ (1139年没)
- バンベルクのオットー (1139年)
同じ地域に関係する人物
- フリーデリケ・フォン・プロイセン (1796-1850) (1850年没)
- アンドレアス・ヴェルクマイスター (1706年没)
- レオポルト2世 (アンハルト=デッサウ侯) (1751年没)
- フリードリヒ1世 (アンハルト公) (1904年没)
- ヨハン・アウグスト (アンハルト=ツェルプスト侯) (1742年没)