伝記
アントニオ・サリエリは、1750年8月18日に生まれ、1825年5月7日に没したイタリアの作曲家である。神聖ローマ皇帝とオーストリア皇帝に仕える宮廷楽長としてヨーロッパ楽壇の頂点に立ち、ベートーヴェンやシューベルト、リストらを育てた名教育家でもあった。43曲のオペラのうち、もっとも成功したのは、パリで初演された『ダナオスの娘たち』(1784年)と『タラール』(1787年)である。1778年にミラノのスカラ座の開場を飾ったのも、彼の『見出されたエウローパ』であった。
レニャーゴに生まれ、幼い頃から、ヴァイオリニストの兄フランチェスコや、レニャーゴ大聖堂のオルガニストの音楽教育を受けた。1763年から翌年にかけて両親が相次いで亡くなって孤児となり、兄のいるパドヴァ、次いでヴェネツィアに住み、声楽と通奏低音を学んだ。1766年にウィーンの作曲家ガスマンがヴェネツィアを訪れたとき、15歳の才能を評価して、ウィーンの宮廷に紹介した。以後ウィーンに留まり、メタスタジオやグルックらと知り合った。最初に上演されたオペラは、モリエールの戯曲を原作とする『女学者』で、不在の師に代わって19歳で作曲し、1770年1月10日にブルク劇場で初演された。1772年の喜劇オペラ『ヴェネツィアの市』で当たりを取り、名声を確立した。グルックによるオペラ改革の支持者で、1771年に最初のオペラ・セリア『アルミーダ』を書いた。
1774年にガスマンが没すると、皇帝ヨーゼフ2世によって、後継者として宮廷作曲家兼イタリア・オペラ監督に任命された。皇帝が宮廷のイタリア・オペラ座を解散していた1776年から1783年は、しばしばウィーンを離れて他地のために作曲した。1778年から翌年のヴェネツィアのカーニバルのために書いた『やきもち焼きの学校』は、長くヨーロッパ各地で上演された。1780年にウィーンへ戻り、ドイツ語オペラ『煙突掃除人』で成功した。台本作家ダ・ポンテのデビュー作『一日長者』(1784年)は失敗に終わったが、カスティとの『トロフォーニオの洞窟』(1785年)や『はじめに音楽、次に言葉』(1786年)などを書いた。グルックはパリに移り、宮廷楽長ボンノも引退状態にあったため、サリエリが宮廷でもっとも重要な作曲家となった。1788年にボンノが没すると宮廷楽長に任命され、亡くなる直前の1824年まで36年間その地位にあった。1784年から1787年にはフランス語オペラ3曲でパリでも名声を得た。『ダナオスの娘たち』は初めグルックとの共作として発表されたが、後にサリエリのみが作曲者と明かされた。ボーマルシェの台本による『タラール』では最大の成功を得て、これをダ・ポンテがイタリア語に翻案して上演した。
1790年を最後にオペラから離れたが、1795年以降に再び新作を発表し、シェイクスピアに基づく『ファルスタッフ』(1799年上演)もある。1802年以降は新作を書かず、主に宮廷の教会用に宗教作品を作り、1804年に大規模なレクイエムを書いた。1817年にはウィーン楽友協会音楽院の指導者に就任した。亡くなる1年半ほど前から認知症に苦しみ、1825年5月7日にウィーンで没した。享年74歳であった。弟子から謝礼を取らず、困窮する音楽家や遺族のために互助会を組織して慈善コンサートも開いた。1820年代のウィーンでは、モーツァルトを毒殺したとの噂が流れたが、立証されていない。死後は忘れられたが、戯曲と映画『アマデウス』の主人公として知名度が上がり、近年は再評価も進む。
同じ年に亡くなった人物
- ホセ・ベルナルド・デ・タグレ (1825年没)
- ジョン・マクレーン (郵政長官) (1825年没)
- 歌川豊国 (1825年没)
- ペーター・ヴィンター (1825年没)
- ジャン・パウル (1825年没)
同じ地域に関係する人物
- カール・リッター・フォン・ゲーガ (1860年没)
- アルフォンソ・カルロス・デ・ボルボン (サン・ハイメ公) (1936年没)
- リューバ・ヴェリッチュ (1996年没)
- Ida Laura Pfeiffer (1858年没)
- レオポルト・アントニーン・コジェルフ (1818年没)