伝記
ジャック=ルイ・ダヴィッドは、フランスにおける新古典主義の画家で、フランス革命期の革命家、政治家である。1748年8月30日に生まれ、1825年12月29日に没した。18世紀後半から19世紀前半の激動期に活躍し、新古典主義の領袖として数々の名作を残した。理想の追求や英雄崇拝というロマン的な面と、現実や理性に重点を置く写実家としての面を併せ持ち、その冷徹な写実が本領であったため、「革命の証人」と評価する向きもある。
パリに鉄商人の子として生まれた。母方は石工の親方の家で、母の兄弟や義兄弟には建築家や大工の親方が多かった。生後すぐ修道院へ養育に出され、9歳の1757年末に、父が決闘で殺害された。その後は建築家の叔父フランソワ・ビュロンに育てられた。幼いころから素描の才能を見せたため、叔父は甥を自分と同じ建築家にしようと考えたが、本人は画家を望んだ。15、6歳のころ、母の従兄弟でロココ絵画の大家ブーシェのもとに送られたが、ブーシェは弟子をとっておらず、知人のジョゼフ=マリー・ヴィアンを紹介した。ヴィアンはロココ調を残しつつ古代風を描いた新古典主義の先駆者で、ダヴィッドは1766年、17歳でその弟子として王立絵画彫刻アカデミーの学生名簿に名を連ね、構図法、美術解剖学、透視画法を学んだ。この頃から、退廃の色が濃いロココ絵画に疑問と反感を抱いていた。学生仲間との決闘で左頬に傷を負い、容貌が変わっただけでなく発話が不自由になり、激情型の性格になったという。
当時、アカデミーの芸術家の最終目標は、ローマ賞を得てローマに留学することだった。ダヴィッドは1771年と翌年に作品を提出したが、いずれも入賞を逃した。3年連続の落選に深く落ち込み、1772年の落選後には飲食を断って部屋にこもり、自殺を試みたが、2日後に助け出された。1774年、《アンティオコスとストラトニケ》でローマ賞を得た。喜びのあまり失神したという。
翌1775年からイタリアに留学し、師のヴィアンがローマのフランス・アカデミー院長として赴任したため、師の家族や学生たちとともに旅立った。留学の終わりに近い1779年頃にポンペイなどの遺跡を見て、これまでの誤った原則では描き方を良くできないと悟り、自分が美と信じたすべてに別れを告げなければならないと気づいたという。1780年に帰国するまでの約5年間、17世紀の巨匠の作品の研究に没頭し、作風はロココ色の強いものから、新古典主義的な硬質の画風へと変わった。1781年に《施しを乞うベリサリウス》で王立アカデミーの準会員となり、1783年に《ヘクトルの死を悼むアンドロマケ》で正会員となった。この時期に建築業者の娘と結婚し、ルーヴル宮殿内に住居とアトリエを構えた。
1784年にルイ16世の注文で《ホラティウス兄弟の誓い》を制作した。王室から注文を受けた最初の作品で、サロンで同時代の画家が「ダヴィッドこそ今年のサロンの真の勝利者である」と述べるほどの評判を集め、代表作の一つとなった。ただ、パリで発表すべき作品をローマで発表したことなどでアカデミーの反発を招き、1786年のローマ賞は候補が彼の弟子ばかりであったため取りやめになった。ローマのアカデミー・ド・フランス院長への就任も拒否され、ダヴィッドはフランスで絵を描き続けて、革命を目の当たりにすることになる。1788年にはアルトワ伯の注文で、唯一完成に至った王族依頼作品《パリスとヘレネの恋》を描いた。
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