伝記
ジョアン6世は、1767年5月13日にリスボン近郊ケルースの王宮で生まれ、1826年3月10日にリスボンで没したポルトガル国王である。在位は1816年から1826年にわたり、「温厚王」とも呼ばれる。マリア1世と王配ペドロ3世の子で、1792年から摂政を務めた。ナポレオンの侵攻を受けて宮廷をブラジルへ移し、ブラジルの独立にも直面した。
マリア1世夫妻の子として、祖父ジョゼ1世の治世に生まれ、母が即位した10歳のときには、まだ一人の王子にすぎなかった。幼少から青年期は目立たず、王位継承者である兄ジョゼの陰にあって過ごした。文化に乏しかったという言い伝えがあるが、歴史家の研究では、兄に劣らない教育を受けていたとされ、フランス大使の報告は、ためらいがちで目立たない人物だと描いている。伝承では、神学者や音楽家、乗馬の教官らから学び、宗教、法律、フランス語、礼儀作法も教わったとされる。1785年、スペイン王太子カルロスの娘カルロッタ・ジョアキナと結婚した。ポルトガル宮廷では、新たな同君連合を恐れて、スペイン王女との結婚に反対する声もあった。結婚は教皇の許可を要し、代理人による婚約の式をスペイン宮廷で行い、6月9日にヴィラ・ヴィソーザの王宮の礼拝堂で祝福を受けた。夫妻は9人の子をもうけた。
1788年に兄の王太子ジョゼが子のないまま世を去ったため、ジョアンが王太子となった。母が精神を病んだ後は、1792年から摂政として国を治めた。スペイン、フランス、イギリスの干渉に絶えず悩まされ、1807年にナポレオンの軍がポルトガルに侵入すると、摂政はイギリス国王ジョージ3世と結んでいた密約により、宮廷とともにイギリス艦隊に護られてブラジルへ避難した。ブラジルのリオ・デ・ジャネイロを都とし、母が没すると、そこで即位した。本国では、フランス軍を追い払ったあとイギリスの将軍が軍政を敷き、ポルトガルは事実上イギリスの保護国となっていた。王はこれを苦々しく思っていたという。1820年にポルトで自由主義革命が起こり、革命政府から帰国を求められた。ベレスフォード将軍はイギリスへ帰国し、イギリス政府は不介入を決めた。1822年、王位継承者ドン・ペドロ王子をブラジルの摂政として残し、リスボンへ帰った。
帰国後は、議会がつくった1822年憲法を守ると誓い、絶対王政から立憲王政へ移った。新憲法に基づく政府をつくり、王子ミゲルを元帥に任じたが、絶対王政を信奉するミゲルは閣僚が気に入らず、反乱を起こしてベンポスタの王宮を包囲し、王を拘束した。外国の外交団が介入して王を脱出させ、テージョ川のイギリス船に保護された。王は全権を取り戻し、ミゲルを罷免して、オーストリアへ亡命させた。ブラジルのペドロを本国に召還しようとしたが、ペドロはブラジル帝国の独立を宣言し、皇帝ペドロ1世として即位した。ポルトガルがこれを承認したのは1825年のことである。病を得た王は摂政審議会を設けて政務を任せ、1826年に世を去った。流刑先のセントヘレナ島でナポレオンは、「私の手からたくみに逃れたのは、ポルトガルのジョアン6世だけだった」と述懐したという。
同じ年に亡くなった人物
- カール・マリア・フォン・ウェーバー (1826年没)
- ジョン・アダムズ (1826年没)
- ニコライ・カラムジン (1826年没)
- コンドラチイ・ルイレーエフ (1826年没)
- フランシス・ロードン=ヘイスティングズ (初代ヘイスティングズ侯爵) (1826年没)
同じ地域に関係する人物
- フェルナンド1世 (ポルトガル王) (1383年没)
- エウゼビオ (2014年没)
- アウグスト (ロイヒテンベルク公) (1835年没)
- イザベル・ルイザ・デ・ブラガンサ (1690年没)
- カルースト・グルベンキアン (1955年没)