伝記
ピエール=シモン・ラプラスは、フランスの数学者・物理学者・天文学者である。古典力学の名著とされる『天体力学概論』と、『確率論の解析理論』を後世に遺した。1749年3月23日、ノルマンディーのボーモン=アン=オージュで、貧しい農業労働者の子として生まれた。能力と魅力的な風采が裕福な近隣の人々の関心を引き、その援助で教育を受けた。生徒から出発して、ボーモンの学校の助教師となったが、紹介状を得てパリに出て、運を試した。力学の原理についての論文がダランベールの関心を引き、その推薦で陸軍士官学校に職を得た。
自分の能力に自信を得たラプラスは、独創的な研究に打ち込み、その後の17年間(1771年から1788年)に、天文学での独創的な業績の大半を生み出した。始まりは1773年にアカデミーで読み上げた論文で、惑星の運動が安定であることを、離心率と傾斜の3乗の項まで示した。続いて積分法、差分法、微分方程式、天文学についての論文を多数発表した。あらゆる科学に広い知識をもち、アカデミーでの議論を支配した。数学者を、実際的・科学的な探求のための道具としてしか見ない点でも、神童の中では異例だった。1780年から翌年にパリのアカデミーを訪れたレクセルは、自分がフランスで最高の数学者だと考えていることを、ラプラスが隠さなかったと報告している。1789年にはロンドンの王立協会のフェローに選ばれた。
ラプラスは、生涯の大半を、数理天文学に費やし、太陽系の力学的な安定性の証明にたどり着いた。『天体力学概論』は、1799年から1825年にかけて出版された全5巻の大著で、剛体や流体の運動を論じ、地球の形や潮汐の理論まで含んでいる。ニュートンが用いた古典力学の幾何学的な研究を、微積分に基づく研究に置き換えたものである。星雲説を独立に定式化し、ブラックホールの存在を最初に唱えた科学者の一人でもある。ラプラス方程式という偏微分方程式を考察し、1780年の著書で発表した成果は、ラプラス変換への途を開いたとされる。この手法は、後に電気技師ヘヴィサイドが回路方程式を解く手法として再発見した。
確率論も生涯の主な課題であった。『確率の哲学的試論』で、確率に基づく帰納的推論の数学的な体系を示し、これは今日のベイズ主義の考えと一致する。いわゆるベイズの定理を体系化したのもラプラスで、ベイズよりもラプラスに端を発するという見方もある。国際度量衡委員会の委員として、地球の北極点から赤道までの子午線弧長を精密に測量し、その1000万分の1を長さの基準にすることを提唱した。これは1983年まで続いたメートルの定義の基礎となった。
ラグランジュらと同じく、革命期のフランスの動乱の中を生きた。1799年にはナポレオンの統領政府で、1か月余の短期間ながら内務大臣に登用され、元老院議員となった。1806年に帝国の伯爵となり、王政復古後の1817年には侯爵に叙された。ルイ18世の下では貴族院議員となった。決定論者で、ある時点の宇宙の全粒子の運動状態が分かれば、未来は完全に計算できると考えた。これを見通す知性が「ラプラスの悪魔」とよばれる。1827年3月5日にパリで亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ (1827年没)
- アルマン・オーギュスタン・ルイ・ド・コランクール (1827年没)
- チャールズ・ウィルソン・ピール (1827年没)
- フリーデリケ・フォン・シュリーベン (1827年没)
- シャルロッテ・フォン・ザクセン=マイニンゲン (1827年没)
同じ地域に関係する人物
- ルイ・デュレ (1979年没)
- エドヴィージュ・フィエール (1998年没)
- オーギュスト・エルバン (1960年没)
- アルフレッド・ラウル (1999年没)
- ジャン=バティスト・セイ (1832年没)