伝記
ジャン=バティスト・セイは、1767年1月5日にフランス南東部のリヨンで生まれ、1832年11月15日に没したフランスの経済学者であり、実業家である。古典的自由主義の信奉者で、競争や自由貿易、事業上の制約の引き下げに賛成する主張を行った。「供給はそれ自身の需要を創造する」という「セイの法則」で知られる。
ユグノー(フランスのカルヴァン派プロテスタント)に属する織物商の家に生まれ、少年時代は寄宿学校で歴史やイタリア語、ラテン語を学んだ。1780年、父の商売の行き詰まりからパリに移った。1785年から2年間、弟とともに商人の徒弟としてイギリスで過ごし、その後、パリの保険会社に勤めた。1792年、熱烈な共和主義者としてフランス革命を喜び、義勇兵としてオーストリア、プロイセンなどの連合軍との戦争に参加した。この頃アダム・スミスの『国富論』を読み、自由放任主義の思想に傾倒する。1794年に共和主義者協会の主筆となり、1794年から1800年まで雑誌『哲学の十年』の編集に携わった。彼の属した「理論家協会」は、デステュット・ド・トラシーとともに、フランスのリベラル学派の創始者となった。
1799年のナポレオンのクーデターの後は、護民院の財務担当に就いた。同年に応募した懸賞論文は落選し、1800年に『オルビー』として出版した。1803年には主著『経済学概論』を出版した。しかし徹底した自由放任を主張するこの著作はナポレオンの目にとまり、彼は私的な会合に呼ばれ、戦争経済の構築のために保護政策と規制を書き直すよう要求された。これを拒むと、著作は禁止され、1804年に護民院を罷免された。別のポストの提示も断り、1805年にフランス北端のカレーに移り、綿工場を設立した。これが大成功し、1812年には経営の株を転売して裕福になり、パリに戻って投機家として暮らした。ナポレオンの没落後の1814年に『経済学概論』第二版を出し、イギリスに渡って、リカードやゴドウィンらと面会し、グラスゴー大学でアダム・スミスが使用していた教壇に立って感激したという。
王政復古の政府は彼の業績を高く評価した。1816年に王立大学の経済学教官に招かれ、1819年には王立工芸院の産業経済学の教授となり、1828年に講義録が出版された。1819年と22年にはリカードがパリのセイを訪ね、1820年にはJ・S・ミルがしばらく滞在した。この頃、セイの法則をめぐる一般過剰供給論争が起こり、マルサスあての書簡やシスモンディとの論争で、彼らの過少消費説を攻撃した。1831年には経済学者として初めてコレージュ・ド・フランスに迎えられた。
セイの法則は、交換経済で財を生産することが、自動的に同価値の所得を生み、その財を買うのに十分な需要を創造する、という主張である。生産量は需要よりも供給量で決まるとされ、失業や資源の遊休があるとすれば、取引上の何らかの制約があると見た。彼は方法論を深く考えた最初の経済学者で、統計学と対比して、経済学は一般的事実からの厳格な推論による原則を基礎にすると述べ、数学を用いることには反対した。また、国家と課税の本質について明敏で、政府支出は政治家と官僚の消費支出であり、課税は人々が別の用途に使ったはずの資源を奪って生産を妨げるので、最小の課税が最良だと指摘した。貨幣は経済上の影響において中立であると、最初に主張した一人でもある。その考えは19世紀後半の新古典派経済学に啓示を与え、のちにケインズらから激しく批判された。
同じ年に亡くなった人物
- カール・クリスティアン・フリードリヒ・クラウゼ (1832年没)
- Aleksander Orlowski (1832年没)
- ウォルター・スコット (1832年没)
- ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ (1832年没)
- ホセ・デ・ラ・セルナ (1832年没)
同じ地域に関係する人物
- ジャン=バティスト・ヴァケット・ド・グリボーバル (1789年没)
- フランソワ・ミッテラン (1996年没)
- アンドレ・ルロワ=グーラン (1986年没)
- Salomon de Brosse (1626年没)
- エミール・ゾラ (1902年没)