伝記
アル=アフタルは、640年ごろに生まれ710年に没した、ウマイヤ朝時代のアラブの詩人である。本名はギヤース・イブン・ガウス・アッタグリビーとされ、メソポタミアのタグリブ族に属するアラブ人キリスト教徒だった。アフタルはあだ名で、「耳の垂れ下がった者」を意味するといわれるが、「おしゃべり」の意だとする説もある。出身地ははっきりせず、ヒーラまたはルサーファの生まれと考えられている。ナジュドの出でメソポタミアに定住したとも伝えられる。
私生活については詳しいことがわかっていない。幼いころに母を失い、継母に育てられたが、継母は冷たく、山羊の番などの卑しい仕事をさせられたという。母性愛に恵まれなかった彼は、継母を恨む詩を作り始め、これが最初の風刺詩になったとされる。結婚と離婚を経験し、のちには同じく離婚した女性と暮らしたという。酒を好み、深酔いするまで飲んだが、それが詩想を得る唯一の方法だと弁明していた。生涯の大半をダマスカスで過ごし、残りは上部メソポタミアの部族のもとで送った。タグリブ族とカイス族の戦いでは、戦場に出るとともに風刺詩でも戦った。
アフタルは、ファラズダク、ジャリール・イブン・アティヤと並んでウマイヤ朝を代表する詩人とされ、なかでも最も代表的な宮廷詩人だった。ウマイヤ朝を称えて詩を作ったことから、第5代カリフのアブドゥルマリクにダマスカスで歓迎のパレードを催されて宮廷に迎えられ、桂冠詩人となった。のちにカリフとなるヤズィードとも親しく、即位したヤズィードは彼に寛大だったという。ウマイヤ朝の支持者であり続け、最初の風刺詩はウマイヤ家の政敵であったメディナのアンサールに向けたものだった。頌詩ではヤズィードやアブドゥルマリクらを称え、風刺詩ではカリフの敵対者を攻撃した。ただしワリード1世の治世には、ライバルのジャリールが台頭したために不興を買った。
信仰は生涯キリスト教のままだった。部族の司祭から厳しい苦行を科されることもあったが、胸には常に十字架を掛け、ダマスカスの宮廷でも外さなかった。アブドゥルマリクはイスラム教への改宗を求めたが、彼は「酒を飲むことと、ラマダーンの断食を免れることを認めてくれるなら受け入れる」と答え、詩にも詠んだという。宮廷で詩を朗唱する際、まず酒を四杯所望したという逸話もある。
ファラズダクとジャリールとの詩の応酬は「ナカーイド」と呼ばれる論争となり、三人はアラブ人のあいだで名高い三人組となった。アフタルはファラズダクを支持する側に立ったが、ジャリールの詩合戦を助けたという話もある。宮廷では誰が最も優れるかが好んで話題にされ、廷臣たちは報復を恐れて一人を推すことを避けた。のちのアッバース朝期には、キリスト教徒であることが不利に働いたものの、文法学者たちは正確で丹念な詩風や、非の打ちどころのない詩節の多さからアフタルを好んだ。アブー・ウバイダは、非の打ちどころのないカスィーダが十編、それに近いものがさらに十編あることを理由に、三人のうち最も重要だとした。ハールーン・アッ=ラシードは、アブドゥルマリクに捧げた頌詩の一節を好んで口にしたという。アッバース朝の祖マンスールも、ウマイヤ家を称えたキリスト教徒の女の息子に並ぶ詩人はいるまいと語ったと伝わる。彼はベドウィンの伝統に連なる詩人で、その詩は純粋なアラビア語の源泉として批評家に受け入れられた。710年、部族の争いで亡くなった。現存する詩は約2千にとどまる。詩集は1891年にベイルートで刊行された。
同じ年に亡くなった人物
- Adrian of Canterbury (710年)
- 中宗 (唐) (710年没)
- 上官婉児 (710年没)
- ウィティザ王 (710年)
- 柿本人麻呂 (710年)
同じ地域に関係する人物
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