伝記
サイフッディーン・ガーズィーは、ザンギー朝のモースルの君主である。1106年または1107年に生まれた。セルジューク朝のアミールで、モースルとアレッポを領有したアターベク・ザンギーの長男で、ヌールッディーンの兄にあたる。四弟クトブッディーン・マウドゥードの跡を継いだ息子も同じ名のサイフッディーン・ガーズィーというため、区別して、ガーズィー1世とも呼ばれる。1143年、父ザンギーは、セルジューク朝のスルタン・マスウードの命令でルハー(エデッサ)の征服に派遣された。スルタンはそのとき、宮廷に伺候する義務も求めていたため、サイフッディーンは父の名代としてマスウードのもとに出仕した。
1146年、ザンギーは、ジャアバル城塞を攻めているときに、近習のヤルンカシュに暗殺された。ザンギーは後継者を決めないまま死んだため、誰が跡を継ぐかは定まらなかった。部下のアミールたちはほとんど、サイフッディーンか弟のヌールッディーンのもとに戻った。ヌールッディーンはアレッポの支配を継ぎ、サイフッディーンはモースルを治めることになった。ザンギーによってモースルの領主に推されていたセルジューク朝の王子アルプ・アルスラーンは、この混乱に乗じて力を取り戻そうとしたが、モースルで捕らえられ、ザンギーの近臣に殺されたと伝えられる。この年、弟のヌールッディーンがサイフッディーンを訪ね、二人は抱き合って泣き、和解した。ヌールッディーンは兄を年長者として、その命に従うと誓ったという。ヌールッディーンは同じ1146年の10月から11月にかけて、ザンギーの死でいったん離れたルハーを再び征服した。ザンギーを殺したヤルンカシュは、ダマスクス近くで捕らえられてアレッポに送られ、さらにモースルのサイフッディーンのもとへ移されて、処刑された。サイフッディーンは、モースルがメソポタミアとの境に位置するため、アッバース朝のカリフとセルジューク朝のスルタンの争いに加わり、イラクのことを優先した。十字軍との聖戦を忘れたわけではなかったが、行動するときは弟ヌールッディーンと打ち合わせたうえで動いた。
1148年、第2回十字軍がダマスクスを包囲すると、ブーリー朝のアターベク、ムイーヌッディーン・ウヌルが救援を求めた。サイフッディーンはヌールッディーンとともに南へ進み、ダマスクスの防衛を助けた。ウヌルは両者の軍を市内には入れなかったが、その到来を利用して十字軍をおどし、包囲を解かせたともいう。サイフッディーンは、ウヌルとは別に十字軍と交渉して撤退を求め、十字軍にバーニヤースを得させたうえで引き揚げさせたという。一方、ヌールッディーンは、アレッポ軍とダマスクス軍を合わせて十字軍の諸侯領に攻め入り、戦利品を得ると、兄サイフッディーン、スルタン・マスウード、アッバース朝のカリフ・ムクタフィーに贈った。
サイフッディーンは1149年に熱病で亡くなった。モースルとジャズィーラの支配は、弟クトブッディーン・マウドゥードが受け継いだ。ヌールッディーンはシンジャールを奪い、弟のクトブッディーンと戦おうとしたが、軍の古参兵が、兄弟の争いはイスラームの力を弱めると言って戦いを拒み、二人は和平を結んだ。イブン・アル=アシールの『完史』によると、サイフッディーンは勇敢で聡明で気前がよく、2日に1回は兵士たちと食事を共にした。軍装に統一の基準を設け、それは近隣の諸侯にも広まった。建築では、モースルにハーンカー(修道場)とアターベク・モスクを建てた。
同じ年に亡くなった人物
- カーディー・アイヤード (1149年)
- ムイーヌッディーン・ウヌル (1149年没)
- ロベール・ド・クラオン (1149年)
- レーモン・ド・ポワティエ (1149年没)
- ベレンゲラ・デ・バルセロナ (1149年没)
同じ地域に関係する人物
- ベール・イブニ (紀元前699)
- ウダイ・サッダーム・フセイン (2003年没)
- アブー・タンマーム (840年代没)
- アフタル (710年没)
- クサイ・サッダーム・フセイン (2003年没)