HISTORICAL PERSON · 紀元前413年没

エウリュメドン (将軍)

ペロポネソス戦争期のアテナイの将軍。ケルキュラ内戦への介入やピュロス攻略に関わり、後のシケリア遠征でシュラクサイ軍との戦いで戦死した。

生涯
紀元前413年没
死亡地
イタリア共和国(シラクーザ県 / Syracuse)
出生地
アテナイ(アテナイ)
出典
世界地図
イタリア共和国(シラクーザ県)

伝記

エウリュメドンは、ペロポネソス戦争期のアテナイの将軍である。トゥクレスの子で、生年は不明、没したのは紀元前413年である。最初に名が見えるのは、紀元前428年または紀元前427年のこととされる。ケルキュラへ向かうペロポネソス艦隊を阻止するために派遣されたが、到着したときにはナウパクトスの小部隊を率いたニコストラトスがすでに島を押さえていたため、合流した艦隊の指揮をとった。ペロポネソス艦隊が現れなかったため、手柄を立てる機会はなかった。紀元前427年のケルキュラの党派争いに60隻の艦隊を率いて関わったともいわれ、争いは民主派の勝利に終わった。翌年の夏にはアテナイ陸軍を共同で率いてタナグラ一帯を荒らし、タナグラ・テバイ連合軍に勝利したとされる。

紀元前425年、エウリュメドンは同僚のソフォクレスとともに、シケリアへ向かう増援の艦隊40隻を率いた。その途上、将軍の職になかったデモステネスと合流し、彼らはメッセニアのピュロスを奪取して防壁を築いた。これを受けてペロポネソス同盟側が軍をピュロスへ向けたことから、ピュロス・スファクテリアの戦いに発展し、降伏しないといわれたスパルタ兵がスファクテリアで降伏した。デモステネスと別れたエウリュメドンとソフォクレスの艦隊は、予定どおりケルキュラへ進み、民主派との争いに敗れて略奪を働いていた寡頭派亡命者の籠る砦を攻め落とした。このときアテナイ側は、ケルキュラの民主派を助ける立場であった。ただし、亡命者たちが虐殺されるのを防ぐ手立てはとらなかったとされる。

その後シケリアに着いてまもなく、ヘルモクラテスが休戦を持ちかけ、エウリュメドンとソフォクレスもこれを承認するよう導かれた。休戦が結ばれたことで艦隊は不要になり、一行は帰国した。ところがアテナイの人々は、シケリアを征服できたのに買収されて撤退したのだと考えた。そのためピュトドロスとソフォクレスは追放刑となり、エウリュメドンは罰金刑を受けた。

紀元前415年に始まったシケリア遠征では、アルキビアデスが途中で逃亡し、ラマコスが戦死し、残ったニキアスも病に臥せった。ニキアスが補佐の将軍を求めたため、紀元前414年にエウリュメドンはデモステネスとともに共同指揮官に選ばれた。ニキアスの労を軽くするための人事であった。デモステネスは10隻の三段櫂船と73隻の輸送船を率い、エウリュメドンの下で送り出されたともいう。エウリュメドンは10隻の船とともに冬至のころ先にシケリアへ送られ、増援を届けた。その後ギリシアに戻って兵を集めていたデモステネスとアナクトリオンで会い、ナウパクトスのコノンから援軍を求められて10隻を分け与えた。二人はそれぞれケルキュラとアカルナニア周辺で兵を集め、イタリアへ進んでトゥリオイを味方につけ、シュラクサイを包囲するニキアスの軍と合流した。

しかしアテナイ軍はすでに劣勢で、デモステネスによるエピポライへの夜襲も失敗に終わった。デモステネスは即時撤退を提案し、エウリュメドンもこれに賛成したが、ニキアスが強く反対した。やがてアテナイ軍はシュラクサイ軍の陸と海からの反撃を受けた。紀元前413年にシュラクサイの港で起きた海戦では、右翼にいたエウリュメドンが本隊から切り離されて港の奥の湾曲部に閉じ込められ、船団とともに全滅したとされる。エウリュメドンは船上で戦いながら戦死した。

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