HISTORICAL PERSON · 紀元前413年没

ニキアス

ペロポネソス戦争期のアテナイの将軍・政治家。ペリクレスの死後に穏健な立場で政治の首位となり、スパルタとの和平を進めて紀元前421年にニキアスの和約を結んだ。反対したシケリア遠征に出て敗れ、処刑された。

生涯
紀元前413年没
死亡地
イタリア共和国(シラクーザ県 / シラクサ)
出生地
ギリシャ共和国(アテネ)
出典
世界地図
イタリア共和国(シラクーザ県)

伝記

ニキアスは、ペロポネソス戦争の時代に活躍した古代アテナイの将軍、政治家である。紀元前470年ころに生まれ、紀元前413年に没した。

アテナイの名家に生まれ、政治的には保守的な貴族の家風のもとで育った。父ニケラトスから大きな財産を受け継ぎ、ラウリオンの銀山にも多くの投資をしていた。クセノフォンによれば、銀山に千人の奴隷を所有し、トラキア人ソシアスに一人あたり日に1オボロスで貸し出していたという。ペリクレスが国政を導いていた時代に頭角を現し、ペリクレスの軍事・政治上の同僚となった。紀元前429年にペリクレスが死ぬと、貴族派の指導者として、民主派を率いるクレオンの政敵となった。誠実で賄賂を受けつけず、神への信仰が篤いことで知られ、デロス祭への寄付など、とくに宗教に関わる公共の事業に惜しみなく私財を出して人気を得た。デロス祭では、デロス島とレネイア島の間に花綱や織物で飾った舟橋を架けさせ、晴れ着の合唱隊がレネイア島へ渡れるようにした。さらに1万ドラクマを寄付して祭りを続けられるようにし、その指示は石柱に刻まれた。歴史家ベリーは、ニキアスを指導者や政治家に向く人物ではないとしたが、その誠実さと廉直さは認めている。穏健な政見の持ち主で、クレオンらの好戦的な政策に反対し、アテナイに有利な条件でスパルタと和平を結ぶことを目指した。

将軍としての名は、紀元前427年にレスボス島の離反を鎮めたのち、海軍を率いてメガラ沖のミノア島を攻略した場面で歴史に現れる。翌年にはミロス島やタナグラ方面へ出撃し、紀元前425年にピュロスでスパルタ勢が攻勢に出た際には、クレオンに指揮権を譲った。ところがクレオンは予想に反してスパルタの捕虜を連れて凱旋し、ニキアスはアテナイ市民の間で大変な不評を受けた。紀元前424年にはキュテーラ攻略に加わり、紀元前423年にはスパルタとの休戦条約に加わり、その直後にメンデーを奪回した。慎重すぎるとの評もあったが、コリントス人を待ち伏せて大半を倒し、シュラクサイの騎兵が通る平原に棘をまいて勝利するなど、周到さと機転も見せた。紀元前421年初頭からアテナイで和平の気運が高まると、提唱者のなかでもニキアスはもっとも積極的だった。和平条約はその年の3月ごろに発効し、「ニキアスの和約」と呼ばれる。ただし、この和約は短命に終わった。

紀元前415年、アテナイはシケリア遠征を企て、ニキアスはアルキビアデス、ラマコスとともに司令官に任じられた。もともと遠征には反対だったが、出発することになった。アルキビアデスはシケリア上陸前に本国へ召還され、ラマコスもシュラクサイを包囲中に戦死した。スパルタが将軍ギュリッポスをシュラクサイの救援に送ると、アテナイもデモステネスとエウリュメドンの率いる増援を送った。しかし、アテナイ軍はスパルタ・コリントス・シュラクサイの連合軍に壊滅的な敗北を喫した。エウリュメドンは戦死し、ニキアスとデモステネスは投降した。捕虜7,000人とともにシュラクサイ近郊の石切り場に送られ、ギュリッポスの命令に反して、二人は処刑された。

歴史家トゥキュディデスは、ニキアスの最期について、日ごろの言行が徳に背くところがなかったことを思えば、このような不運の極みに終わるいわれはなかった、と述べている。プラトンの対話篇『ラケス』では、攻撃的なラケスに対し、理知と判断力を代表する人物として登場する。

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