HISTORICAL PERSON · 1829年没

ハンフリー・デービー

英国の化学者・発明家。アルカリ金属やアルカリ土類金属をいくつも発見し、1815年にはデービー灯を発明して坑夫の安全に貢献した。

生涯
1829年没
死亡地
スイス連邦(ジュネーヴ州 / ジュネーヴ)
出生地
イギリス連邦(ペンザンス)
出典
世界地図
スイス連邦(ジュネーヴ州)

伝記

サー・ハンフリー・デービーは、イギリスの化学者であり発明家で、初代準男爵である。1778年12月17日に生まれ、1829年5月29日に没した。アルカリ金属やアルカリ土類金属をいくつか発見したことで知られ、塩素やヨウ素の性質も研究した。1815年にデービー灯を発明し、可燃性の気体があっても坑夫が安全に働けるようにした。

コーンウォールのペンザンスに生まれた。父ロバートは木彫職人で、利益よりも芸術性を追う傾向があった。母グレースの両親は熱病で相次いで亡くなり、グレースは姉妹とともにペンザンスの外科医ジョン・トンキンの養子になった。ハンフリーは5人の子の長男で、弟ジョンも化学者となった。トンキンは幼いデービーの聡明さを見抜き、父を説得して私立学校へ転校させた。記憶力がよく、本から素早く知識を吸収した。特に好きだった本にバニヤンの『天路歴程』があり、8歳ごろには、市場の荷車の上に立って少年たちを集め、最近読んだ本の話を聞かせた。そうして詩を愛するようになった。同じころ科学実験を好むようになったのは、クエーカーで馬具工のロバート・ダンキンの影響である。ダンキンは自分でボルタ電池やライデン瓶を作り、デービーに科学の初歩を教えた。のちに王立研究所の教授になったとき、デービーはダンキンから教わった実験の多くを再現した。1793年にトルーローに行って教育を終え、型にはめられず放っておかれたことが、自分にはよかったと後に語った。

1794年に父が亡くなると、トンキンはデービーを、ペンザンスで病院を営む外科医ボーラスに弟子入りさせた。病院の薬局で化学を学び、トンキンの自宅の屋根裏で実験を行った。1795年に最初の詩を書いたが、間もなく科学に専念するため詩作を断念した。17歳のころには、熱の物質性という問題を友人と熱心に議論した。ある冬の日、ダンキンを川に誘い、2つの氷の板をこすりあわせると氷が溶ける実験を披露した。のちに王立研究所で、洗練させた形で同じ実験を見せ、注目を浴びた。

王立協会フェローのデービス・ギルバートに見出され、書斎を使わせてもらうことになった。ジェームズ・ワットの息子グレゴリーとも、ペンザンスで友人になり、化学を学んだ。トーマス・ベドーズは、ブリストルに気体研究所を創設したところで、研究所を指揮する助手を探していた。ギルバートの推薦を、トンキンは当初望まなかったが、本人の希望を知って許した。1798年10月2日、デービーはブリストルの気体研究所に来た。人工的に製造した気体を医療に応用する研究所で、各種実験の指揮を任された。ここでコールリッジやサウジーとも友人になった。亜酸化窒素、すなわち笑気ガスの吸引実験を行い、デービー自身も依存症になった。痛覚を取り除く能力に気づいていたが、麻酔剤として使うことには思い至らなかったようである。様々なガス実験で危険を冒し、一酸化炭素の吸引では、死線をさまよった。1799年に『亜酸化窒素とその呼吸に関する化学的、哲学的研究』を発表した。

1801年、ジョゼフ・バンクスの呼び寄せで、ロンドンの王立研究所の化学講演助手兼実験主任になった。同年4月25日の動電気学の講演で、天職の一つに出会い、6月には500人近い観客が集まった。華々しい、時には危険な実験を組み込む講演で人気を博し、ハンサムなデービーは女性からの人気も高かった。1802年7月、23歳で正講演者に昇格した。1803年11月に王立協会フェローに、1810年にスウェーデン王立科学アカデミーの外国人会員に選ばれた。1806年に電気化学的仮説を発表した。

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