伝記
ジャン=バティスト・ピエール・アントワーヌ・ド・モネ、シュヴァリエ・ド・ラマルクは、ブルボン朝から復古王政にかけての、19世紀の著名な博物学者である。1744年8月1日に生まれ、1829年12月18日に没した。生物学という語を、現代の意味で初めて使った人物の一人とされる。
貧しい下級貴族の家に生まれ、従軍の後に博物学に関心を持ち、フランスの植物相に関する多数の著書を著した。これでビュフォンの関心を引き、フランス自然誌博物館の職に就くことになった。1789年にフランス革命が起きると熱烈に歓迎し、貴族の称号を破り捨てたという。終生革命の意義を擁護したことから、後世の革命思想家にも大きな影響を与えた。1799年に科学アカデミーの会員となり、1793年に自然史博物館に入って昆虫などを研究するうちに、無脊椎動物の専門家になった。植物の研究に専念した後、彼が作ったもう一つの言葉である無脊椎動物の管理者となり、一連の公開講座を開いた。1800年までは種の不変を信じていたが、この年、無脊椎動物の分類によって、進化論者であることを宣言した。1801年刊の『無脊椎動物の体系』では、キュヴィエの天変地異説を批判した。1802年には、生物学という用語を作り、脊椎動物と無脊椎動物を初めて区別した。1820年に失明したが、二人の娘に助けられて『無脊椎動物誌』7巻を完成させた。
研究の重要な成果の一つは、無脊椎動物の分類体系である。リンネの体系では、無脊椎動物は昆虫類と蠕虫類に分けられていただけで、ほとんど手付かずの状況だった。1797年の体系でこれを5綱に分け、1801年の『無脊椎動物の体系』では7綱とした。『動物哲学』ではさらに10綱とし、これは現在の体系にかなり近い。また、体制の高度さの順に配置し、そこに進化の考えを見せている。パリの軟体動物の研究の後、次第に、長い時間の中で種が変化するという確信を持つに至り、その説明の大筋を、1809年の著作『動物哲学』に記した。進化論は一般に用不用説と呼ばれる。ただし『動物哲学』は学術書ではなく、啓蒙書、教科書的な書物であり、内容も、当時博物学界で一定の支持を得ていた説を大衆に広めたものだとされる。
自然発生説を信じ、最古に発生した生物が現在もっとも進化した生物だと考えた。個体が生涯に応じて体を変化させ、その一部が子孫に継承されることで、生物は進化すると考えた。よく使う器官は発達し、使わない器官は弱って、時には消失するというのが第一の法則である。環境の影響や、器官の使用と不使用で獲得した形質は、両性に共通なら子に保たれるというのが第二の法則であり、これが獲得形質の遺伝にあたる。この考えは全てが彼独自のものではないが、ダーウィン以前の進化論の責任を一人で背負う形になった。ダーウィンは『種の起源』第3版で、進化という概念を支持して人々の関心を呼び起こしたと彼を讃えた。一方、獲得形質の遺伝は現在広く反駁されており、ワイスマンはネズミの尾を切る実験で、負傷が子孫に伝わらないことを示した。ただしラマルクは、負傷や切除を真の獲得形質とは見なさず、動物自身の必要性から生まれたもののみが伝わると考えていた。
キュヴィエの反進化論的な意見への批判のためには、孤独であることを厭わなかった。彼は自然哲学的な思想を背景に持ち、当時広がってきた実証主義的な傾向を嫌っていたようで、最後の哲学者と呼ばれたこともある。近年は、エピジェネティクスなどの発見により、部分的に再評価されている。
同じ年に亡くなった人物
- ハンフリー・デービー (1829年没)
- 鳥文斎栄之 (1829年没)
- ペーター1世 (オルデンブルク大公) (1829年没)
- ジュゼッペ・ラッディ (1829年没)
- ニールス・アーベル (1829年没)
同じ地域に関係する人物
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- フィリップ=アントワーヌ・メルラン・ド・ドゥーエー (1838年没)
- アデル・ド・サヴォワ (1154年没)
- エミール・デュクロー (1904年没)
- ピエール・ブール (1994年没)