伝記
フィリピコス・バルダネスは、東ローマ帝国の皇帝(在位711年〜713年)である。もとの名はバルダネスといい、フィリピコスは即位に際して名乗った名である。ペルガモン出身のアルメニア系ともされるが、コンスタンティノポリスの貴族の家に生まれたとするのが通説的な見方で、アルメニア系かどうかについては近年の研究者のあいだで異論も出ている。父ニケフォロスは高い爵位のパトリキオスで、軍を率いる将軍でもあった。当時の史料は、バルダネスがギリシア語で教育を受け、学問への関心と弁舌の才を備えていたことを伝えている。フィリピコスという名は、かつて皇帝マウリキオスの姉妹ゴルディアと結婚した同名の将軍に由来し、皇帝家とのつながりが名に正統性を与えたと説明される。
即位するまでに、バルダネスは二度も追放を経験している。一度目は702年から703年ごろ、皇帝ティベリオス3世が、鷲が頭に影を落とす予言的な夢を彼が見たと知り、ケファレニア島に追放したというものである。二度目は、ユスティニアノス2世がいったん呼び戻しながら、おそらく帝位への野心を理由に、711年に黒海北岸のケルソンへ追放したというものである。経緯には異なる伝えもあり、ケルソンから逃れてハザール人の支援を受けたともいわれる。ユスティニアノス2世は、ケルソンで受けた仕打ちへの復讐として艦隊を送ったが、ケルソンの市民はバルダネスを皇帝と宣言し、艦隊も呼応して反乱に加わった。バルダネスは艦隊とともにコンスタンティノポリスへ向かい、ほとんど抵抗を受けずに入城した。ユスティニアノス2世は殺され、その息子ティベリオスも同じ運命をたどった。
即位したフィリピコスは、単意説を支持して第3コンスタンティノポリス公会議の決議を破棄し、総主教キュロスを退けて、同じ教説の立場に立つヨハネス6世を据えた。また、帝国内のアルメニア人にもこの教説を強いたため、多くのアルメニア人が故郷へ去る結果となった。こうした政策は多くの人々の不満を招いた。さらに、小アジアに進出してきたウマイヤ朝の軍や、トラキア地方に侵攻した第一次ブルガリア帝国の軍にもうまく対応できなかった。
そのため、アルテミオス(後のアナスタシオス2世)らによる陰謀が企てられた。713年のペンテコステの前日、フィリピコスは市民との会食のあと休んでいるところをテマの兵やサーカス党派の人々に襲われ、馬車競技場に幽閉されて盲目にされた。この陰謀の実行者は、オプシキオン軍の長官ゲオルギオス・ブラフォスだったともいわれる。翌日、アルテミオスが代わって即位した。フィリピコスの没年は714年1月20日とされるが、確実ではない。
同じ年に亡くなった人物
- グリモアルド2世 (714年没)
- Ibrahim al-Nakhai (714年没)
- ハッジャージ (714年)
- 殤帝 (唐) (714年没)
- Sa'id ibn Jubayr (714年)
同じ地域に関係する人物
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