伝記
ハンニバル・マゴは、紀元前5世紀末にカルタゴを率いてシケリア(シチリア)へ遠征した将軍である。ギスコの子で、第一次ヒメラの戦いで敗死したハミルカル1世の孫にあたる。のちに第二次ポエニ戦争で名高いハンニバルとの区別のために、ハンニバル・マゴと呼ばれる。
発端は紀元前413年ごろ、シケリアのカルタゴ領に近いシケル人の都市セゲスタが、近隣のセリヌスに攻められたことだった。セゲスタはカルタゴの従属都市になることを条件に支援を求めた。ハンニバルは紀元前410年にカルタゴの最高官であるスフェスに選ばれ、さらに将軍にも任命されて軍事上の権力も得た。まずセゲスタとセリヌスの争いをシュラクサイの裁定にゆだねたともいわれるが、やがてリビュア兵5,000とカンパニア人傭兵800をシケリアへ送り、セリヌス軍を撃破した。冬のあいだも大規模な軍備を続け、翌年の春、大軍を率いて海を渡り、モティア近くの岬に上陸した。その軍勢の規模は、古代の記録では10万、20万と伝えられるが、これは明らかに誇張とされる。
ハンニバルはまずマザラの砦を攻め落とし、セリヌスを完全に包囲した。約10日間の攻城戦ののちに町は陥落し、住民の多くは殺されて、逃れた者はわずかだったという。生き残って戻った人々には、城壁を失った故郷が返されたが、町はこののちカルタゴに貢納を課されることになった。なお、セリヌスの神殿の破壊がハンニバルによるものかは疑わしく、遺跡の状況からは地震による破壊のほうが有力とも考えられている。
続いて軍はヒメラに向かった。ヒメラは70年前に祖父ハミルカルが敗れた土地である。当初カルタゴ軍は城壁の裂け目から踏み込んだものの、市民に押し返された。市民はディオクレス率いる4,000人ほどの援軍も得て頑強に抵抗した。援軍の中には、若き日のディオニュシオスもいたとされる。市民は一時は出撃して優勢となった。だがハンニバル自身が前線に出て、ギリシア側は大きな損害を受けて退いた。その後、「カルタゴ海軍がシュラクサイを直接攻撃する」という偽情報が流れ、援軍はヒメラを離れた。守りの薄くなった町はカルタゴ軍に攻め落とされ、徹底的に破壊された。ヒメラを含むギリシア系都市の征服により、カルタゴ領とギリシア勢力圏の境はアクラガス付近で安定し、征服された都市はカルタゴに貢納を課されたともいわれる。ハンニバルは捕虜の男性3,000人を、祖父が最期を迎えた場所で処刑した。祖父の復讐だったとされる。のちに軍を解散して強力な守備隊を残し、略奪した美術品などの戦利品とともにカルタゴへ戻った彼は、市民から英雄として迎えられた。
この遠征は、ヒメラでの敗北以来シケリアへの介入を控えてきたカルタゴの方針が、転換したことを示すものだった。紀元前406年、ヘルモクラテスがカルタゴ領へゲリラ的な攻撃を仕掛けると、ハンニバルは再び遠征軍を率いてシケリアに渡った。このとき65歳ともいわれ、高齢のため甥のヒミルコを共同の指揮官とし、息子のボミルカルも伴っていたという。軍はアクラガス(現在のアグリジェント)を包囲した。攻城用の堡塁を築くため、ハンニバルは郊外の墓や記念碑を壊して材料にするよう命じたが、兵士たちはこれを恐れた。折しも陣中にペストが広がり、ハンニバルも包囲が始まって間もなく病死した。ボミルカルも数日後に亡くなったとされる。後を継いだヒミルコは、墓や記念碑の破壊をやめさせて兵士を安心させ、包囲を続けてアクラガスを陥落させた。
同じ年に亡くなった人物
該当人物はまだありません。
同じ地域に関係する人物
- ドメニコ・モドゥーニョ (1994年没)
- ジョヴァンニ・バッティスタ・オディエルナ (1660年没)
- シモーニデース (紀元前468年没)