HISTORICAL PERSON · 1994年没

ドメニコ・モドゥーニョ

イタリアの歌手・作曲家・俳優。1958年のサンレモ音楽祭で歌った『ヴォラーレ』で世界的に有名になり、第1回グラミー賞の最優秀レコード賞を受賞した。

生涯
1994年没
死亡地
イタリア共和国(アグリジェント県 / ランペドゥーザ・エ・リノーザ)
出生地
イタリア共和国(ポリニャーノ・ア・マーレ)
出典
世界地図
イタリア共和国(アグリジェント県)

伝記

ドメニコ・モドゥーニョは、イタリアの歌手、作曲家、俳優である。ギターも弾き、映画の監督や政治家も務めた。1928年1月9日、イタリア南部バーリ県のポリニャーノ・ア・マーレに生まれた。父のヴィート・コジモは土地の警察の指揮官で、母パスクア・ロルッソは近隣の町コンヴェルサーノの出身であった。兄が2人、姉が1人おり、幼いころから家族にはミミと呼ばれていた。

1932年に父の転勤で一家がブリンディジ県のサン・ピエトロ・ヴェルノティコに移り、そこで土地の方言を覚えた。のちの最初の歌は、この方言で書かれたという。10代のうちにギターとアコーディオンを習い、1945年には最初の2曲を作ったが、録音はしなかった。マンフレドニアの商業学校にも通った。1947年には父に黙ってトリノへ出て、給仕やタイヤ工場の見習いとして働いた。1949年に兵役を終えると故郷に戻り、仲間と娘たちのためのセレナードを演奏して回った。

その後はローマに出て、素人の俳優を対象にした選抜に通って映画実験センターの演劇学校に入り、毎月の奨学金も得た。ここで知り合った女優志望のフランカ・ガンドルフィがのちに妻となる。夜はマルグッタ通りの芸術サークルで、自作の方言の歌と民謡を歌った。1949年の映画に端役で出演したのを皮切りに、1950年代前半には演劇学校で学びながら、エドゥアルド・デ・フィリッポの映画作品などに出た。1952年には劇団でモリエールの舞台に立っている。同じ年の映画で、シチリア出身の兵士が子供を寝かしつける場面のために故郷の子守歌を歌ったところ、これがテレビの番組に呼ばれるきっかけとなった。その歌を評価した放送局の責任者から音楽番組の企画を持ちかけられ、妻となるガンドルフィも巻き込んで、1953年の初めにラジオで毎回1曲ずつ歌う番組を始めた。この番組で披露した曲の一部は、のちに録音されている。1953年に映画実験センターの修了証を得たあとも、映画に出る一方で、ラジオで演奏や効果音を担当した。

1958年、サンレモ音楽祭で『青く塗られた青の中』を歌って優勝し、一躍世界的に知られた。英語名の『ヴォラーレ』でも親しまれる曲で、作詞作曲も本人が手がけ、音楽祭の歴史で初めて、自作を自分で歌って優勝した人物になったとされる。アメリカでは第1回のグラミー賞で最優秀レコード賞と最優秀楽曲賞を受け、英語以外の歌として初めてビルボードのホット100で1位に立ったと伝えられる。この曲によって「ミスター・ヴォラーレ」と呼ばれるようになった。イタリア著作者・出版者協会の統計では、1958年以降に世界で最も多く演奏されたイタリアの歌とされる。英語で録音しないままアメリカでレコードを売ったイタリアの歌手は、カロゾーネと本人の2人だけだったという。サンレモ音楽祭では、その後も1959年の『チャオ・チャオ・バンビーナ』、1962年の『アディオ・アディオ』、1966年の『愛は限りなく』で優勝し、通算4度の優勝を果たした。

生涯に作って録音した歌は約230曲、出演した映画は38本とされる。ほかにテレビ映画7本、舞台13本にも出て、テレビ番組の司会も務めた。イタリアの軽音楽の父の一人と見なされ、レコードの売り上げは7000万枚を超えるともいう。1970年代にも歌手、作曲家として活躍を続け、1987年にはトリノから選ばれて国会議員となり、晩年は急進党の幹部でもあった。1994年8月6日、ランペドゥーザ島で亡くなった。『ヴォラーレ』はのちにジプシー・キングスがカバーして再びヒットした。

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