伝記
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルは、ドイツの哲学者である。1770年8月27日に生まれ、1831年11月14日に没した。カント、フィヒテ、シェリングと並んで、ドイツ観念論を代表する思想家である。18世紀後半から19世紀初頭の時代を生き、領邦分立の状態からナポレオンの侵攻を受けて、ドイツ統一へ向かい始める転換期を歩んだ。
神聖ローマ帝国の領邦ヴュルテンベルク公国の首都シュトゥットガルトで、プロテスタント家庭の官吏の息子に生まれた。父ゲオルク・ルートヴィヒはヴュルテンベルク政府の公務員で、収税局書記としてカール・オイゲン公に仕えていた。母マリア・マグダレーナは民会の役員を務めるフロム家の出身で、信仰篤く教養豊かな進歩的な教育者であった。一家のルーツは、16世紀にオーストリア領の山岳地方から迫害を逃れてきたプロテスタントの移民にあるという。三人兄弟の長子で、弟はナポレオン戦争に従軍してロシア遠征中に戦死した。幼少期は病気がちで、天然痘で死に瀕したこともあるが、母の影響で学問の環境に恵まれ、5歳でラテン語学校に入り、文学・新聞・哲学などの書物を読みあさった。
7歳からギムナジウムに進み、レフラー先生を特に尊敬した。10歳から13歳にかけて新約聖書やキケロを教わり、ヘブライ語も学んだ。8歳のとき先生からシェイクスピア全集をもらうなど大変な読書家で、感想も多数書き残した。1783年9月20日、13歳のときに母が42歳で亡くなる。ヘーゲルは母への愛を晩年まで慕い、終生形作ったプロテスタントとしての堅実な人間性は、母との暮らしの記憶から受け継いだものだった。1785年には尊敬するレフラー先生も失った。それでも勉学への意欲は沈まず、15歳ごろから歴史や法律、道徳などを広く学び、読んだ本の内容を細かく要約した。
1788年にテュービンゲン神学校に入学し、寮生活をしながら神学と哲学を学び、ヘルダーリン、シェリングと親密な交友関係を築いた。ギリシア文化に加え、カント、プラトン、ヤコービの哲学を学び、啓蒙主義と1789年のフランス革命の勃発に触発されて、キリスト教史の研究を行った。卒業後は1793年から1800年までベルンで、次いでフランクフルトで家庭教師をしながら政治研究に専念した。1801年にシェリングが教授を務めるイェーナ大学の私講師となり、シェリングと共同研究を行い、カント、ヤコービ、フィヒテを批判する論文を書いたが、しだいに独自の立場を形成し、1807年に『精神現象学』を刊行した。これでシェリングを批判し、友情は途絶えた。折しもナポレオンに敗れてイェーナ大学は閉鎖され、職を失った。占領下で行進中のナポレオンを見て、「馬上の世界精神」と評した。
1808年からは、友人ニートハンマーの斡旋で、バンベルクで新聞社の編集者となり、ニュルンベルクでギムナジウムの校長を務めた。教科書編纂を目的に『大論理学』『エンチクロペディー』を執筆した。1811年に都市貴族の娘と結婚し、二人の男子をもうけた。1816年にハイデルベルク大学の教授職を得て、学問的評価を確立し、1818年にベルリン大学の教授に招かれた。1821年に後期の代表作『法の哲学』を発表し、数々の講義で学生の心を捉えて、ヘーゲル学派を形成した。プロイセン政府の好感を得て、1829年に大学総長に選ばれた。1831年11月14日、猛威を振るっていたコレラに倒れて急逝した。『歴史哲学』『美学』『宗教哲学』は、没後に弟子たちが講義と聴講生のノートから編纂したものである。
同じ年に亡くなった人物
- Agathangelos of Constantinople (1831年没)
- ジョン・アバーネシー (1831年没)
- ロドルフ・クレゼール (1831年没)
- アウグスト・フォン・グナイゼナウ (1831年没)
- セバスチャン・エラール (1831年没)
同じ地域に関係する人物
- Rut Brandt (2006年没)
- カール・リヒャルト・レプシウス (1884年没)
- ベンノ・オーネゾルク (1967年没)
- ハインリヒ・フォン・クライスト (1811年没)
- アドルフ・エングラー (1930年没)