伝記
ジェームズ・モンローは、アメリカ合衆国の政治家、軍人で、第5代大統領(在任1817年~1825年)である。1758年4月28日に生まれ、1831年7月4日にニューヨーク市で死去した。建国の父として最後の世代にあたり、「モンロー主義」を発表したことで最も著名である。
バージニア植民地ウェストモアランド郡の森林地帯に生まれた。父スペンスは木工業も学んだことのある中程度の農園主で、母はエリザベス・ジョーンズである。11歳から16歳までキャンベルタウン・アカデミーで学び、並外れた生徒として秀でた。級友にのちの最高裁判所長官ジョン・マーシャルがいた。16歳でウィリアム・アンド・メアリー大学に入学したが、1774年のウィリアムズバーグは勉強どころでなく、国王に対する反乱の機運が学生の大半に広まっていた。1775年6月、24人の年長者に加わって総督宮殿の武器庫を襲い、奪った200挺の銃と300振りの剣でウィリアムズバーグの民兵隊を武装させた。翌春に大学を辞めて大陸軍に入隊し、トレントンの戦いで功績を挙げたが、このとき左肩を負傷した。独立戦争で実際に戦った最後の大統領である。
戦後は1780年から1783年までトーマス・ジェファーソンのもとで法律を学んだ。1782年にバージニア下院議員に選ばれ、1783年から1786年に連合会議の代議員を務めた。1788年の憲法批准をめぐるバージニア会議では、中央政府に大きな権限を与えすぎると主張して批准に反対した。それでも新しい連邦政府に積極的に関わり、1790年に上院議員に選ばれてジェファーソンらの一党、のちの民主共和党に加わった。1794年に駐フランス全権公使に指名されると上院議員を辞任した。フランスでは、ルイ16世の処刑に反対して逮捕されたトマス・ペインの釈放に成功し、ラファイエット夫人らアメリカ人の解放に努めた。ところが、フランス革命を強く支持してワシントン政権の方針と食い違い、ロンドンで署名されたジェイ条約にフランスは憤激し、ワシントンは、彼が不手際だったとして公使を解任した。
1799年にバージニア州知事に選ばれて1802年まで務め、1800年のガブリエルの奴隷反乱では州兵を招集して鎮圧した。ジェファーソン政権では、ルイジアナ買収交渉のためフランスに派遣され、これで国民的な名声を得た。1803年から1807年は駐イギリス公使を務めたが、1806年の条約案が水夫の強制徴募を禁じていなかったため、ジェファーソンが批准を拒んだ。1808年には南部の「古共和党員」に担がれて大統領選に出たが、マディソンに落ち着いた。1811年に再度州知事となって4か月で辞し、国務長官に選ばれた。米英戦争では、マディソン大統領の下で国務長官と陸軍長官を兼ねて重要な役割を演じた。
1816年の大統領選挙では、退勢著しい連邦党の抵抗がほとんどなく、選挙人投票の80%以上を得て当選した。党派の緊張を緩めようと国内を巡行し、国家主義が高まる中で各地で歓迎され、党派の抗争は弱まって「好感情の時代」が続いた。1819年には恐慌が襲い、1820年にはミズーリ準州の加盟問題で国内が論争になったが、同年の選挙ではほぼ全会一致で再選された。この間にフロリダの獲得(1819年)やミズーリ協定(1820年)が続き、1823年に、ヨーロッパの干渉を容認しないとするモンロー主義を発表した。1825年に退任すると財政的苦境に立たされた。モンローは大統領を続けて輩出したバージニア王朝と呼ばれた時代の最後の人物でもあった。
同じ年に亡くなった人物
- マリア・アマーリア・フォン・ザクセン (1757-1831) (1831年没)
- クリスティアン・ゴットフリート・ケルナー (1831年没)
- アウグスト・フォン・グナイゼナウ (1831年没)
- ヘンリー・フォスター (1831年没)
- バルトホルト・ゲオルク・ニーブール (1831年没)
同じ地域に関係する人物
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- ジョン・トーリー (1873年没)
- ダイアナ・ヴリーランド (1989年没)
- ウィンフィールド・スコット (1866年没)
- シシリー・タイソン (2021年没)