伝記
アンバサ・ブン・スハイム・カルビーは、ウマイヤ朝のアンダルス総督(ワリー)の一人である。721年から726年までその地位にあったとされ、722年から726年とする説もある。没年は726年である。名の示すとおり、カルブ族の出身である。カルブ族はアラビア半島のクダア部族に属する有力な支族で、イスラーム以前から南シリアと北アラビアに根を下ろし、ムアーウィヤとヤズィード父子の時代にはウマイヤ家と深く結びついて大きな権力を得た。
当時のウマイヤ朝は、大西洋から中央アジアにまで広がった版図の中で、地方政府が徴収してダマスクスの中枢に納める税と、地方政府の取り分の配分をめぐり、カリフと地方のアラブ部族民との間に生じる軋轢を大きな課題としていた。スライマーン、ウマル2世、ヤズィード2世はそれぞれ、個人的な忠臣を地方に送って税を中央に送金させた。720年2月にウマル2世が死去すると、ヤズィード2世はすぐに総督人事を入れ替え、イフリーキヤ総督を新たに任じるとともに、アンダルス総督にカルブ家のアンバサを任命した。
アンバサは着任するとキリスト教徒への税を倍にし、地税ハラージュの総額を倍増させた。ユダヤ教徒には財産の没収も命じたとされる。ただし増税の命令は、アラブ人が在地領主を介して間接的に支配していたイベリア半島の大部分では実行されにくく、条約で条件を定めて降伏した領地や町には及ばなかった。一方、セプティマニアのようにアラブ人が直接支配する土地では、よく実行された。724年にヤズィード2世が死去して弟ヒシャームが新カリフになると、中東では内紛が起こった。アンバサはカリフの命により非ムスリムへの増税を進め、725年にエジプトで大きな反乱が起こると、重税の対象は非アラブ人のムスリムにも及んだ。この厳しい収奪は、アンダルスの支配を固め、中央からの自立を強める面もあった。
こうした強圧的な支配に対し、各地で不満が高まり、不服従や反乱が散発した。アストゥリアスの山地に立てこもった元西ゴート貴族ペラーヨは、徴税を試みたウマイヤ軍の巡察隊を奇襲して破り、反乱勢力を集めていった。コバドンガの戦いである。キリスト教徒側の極めて神話的な記録では、ウマイヤ軍は大損害を受けたとされる。しかしイスラーム側の年代記者はこれを小競り合いとみて関心を示さず、同時代のキリスト教徒の唯一の史料であるモサラベ年代記にも記述がない。このため、後世のレコンキスタの端緒として誇張されたと考えられている。ほかにカンタブリアの公ペドロが反乱に加わり、723年にバスク人が、724年にはアラゴンの地域が蜂起したという。
アンバサは前任のサムフの方針を引き継ぎ、ピレネー山脈の北、セプティマニアへ何度も遠征した。724年か725年にはアラブ側が西ゴート人の都市カルカソンヌを占領し、ニームも抵抗を受けずに獲得した。数千人ともいわれるヒスパニアの難民がフランク王国へ移り、アクィタニアやプロヴァンスにも流れこんだ。さらにフランク王国下のブルグンディアに侵攻してオータンにまで達したが、この遠征中の726年に没した。自然死とも、戦闘中の死ともいわれる。遠征軍は、アンバサが後継者に指名した人物の指揮下で撤退した。後任のウズラ・ブン・アブドゥッラー・アル・フィフリーは、数か月でヤフヤー・ブン・サラマ・アル・カルビーに交代し、ヤフヤーはアンバサの重税と財産没収を非難して否定した。ヒジュラ暦104年のアンバサの治世には、アンダルスで初めてディルハム銀貨が鋳造されたとされる。
同じ年に亡くなった人物
- マルチェッロ・テガッリアーノ (726年)
- ムヌザ (726年(推定))
同じ地域に関係する人物
- ムハンマド3世 (ナスル朝) (1314年没)
- アルペトラギウス (1204年没)
- ペドロ・デ・メナ (1688年没)
- シャビエル・トンド (2011年没)
- イスマーイール1世 (ナスル朝) (1325年没)