HISTORICAL PERSON · 紀元前401年没

小キュロス

アケメネス朝ペルシアの王族。リュディア総督としてギリシア人傭兵を集め兄アルタクセルクセス2世に反乱を起こしたが、クナクサの戦いで討ち死にした。

生涯
紀元前401年没
死亡地
イラク共和国(バービル県 / Cunaxa)
出生地
—
出典
世界地図
イラク共和国(バービル県)

伝記

小キュロスは、アケメネス朝ペルシアの王族で、ダレイオス2世の息子、アルタクセルクセス2世の弟にあたる。紀元前401年の秋に没した。帝国の創始者キュロス2世(大キュロス)と区別するため小キュロスと呼ばれる。リュディアの総督を務めたが、兄王に反乱を起こし、クナクサの戦いで戦死した。

母はダレイオス2世の異母姉妹である王妃パリュサティスで、キュロスは次男として生まれた。父の即位は紀元前423年1月頃(紀元前424年とも伝えられる)で、キュロスはその後に生まれた。兄はアルサケスといい、のちにアルタクセルクセス2世となる。プルタルコスは、キュロスが若い頃から気性が荒くせっかちであったと記す。一方クセノポンは、宮廷での教育を受けた彼が、年長者への従順さで評判を得たこと、乗馬や弓、投げ槍にも秀で、狩りでは熊に組みつかれて落馬しながらも仕留めたことなどを伝えている。

紀元前408年頃、キュロスはリュディア、大フリュギア、カッパドキアの総督となり、カストロス平原に集結する全軍の総司令官に任じられた。ペロポネソス戦争に介入して、スパルタのリュサンドロスを支援し、戦争は最終的にアテナイの敗北に終わった。このとき彼はカラノスという称号も与えられ、政治的にも軍事的にも権限が大きく広がって、ほぼ自立した存在になったという。小アジアで出会ったリュサンドロスは、キュロスが王位に就く助けになろうとし、リュサンドロス自身もペルシアの王子の力でギリシアの支配者になることを望んでいた。そこでキュロスは持てる資源をこの将軍に提供し、父に呼び戻されてスサへ向かうときには、小アジアの諸都市からの収入をすべて彼に譲った。やがて父王が病に倒れ、臨終に際して長男アルサケスとキュロスを呼び寄せた。母パリュサティスは、父が王となったのちに生まれた子だとして、かわいがっていたキュロスを後継者にするよう主張した。しかし父王はこれを退け、王となる前に生まれていた兄アルサケスを後継者に指名した。紀元前404年初めに父王が没すると、アルサケスはアルタクセルクセス2世として即位した。これに不満を抱いたキュロスは、パサルガダエで即位式を行っていた兄王の暗殺をくわだてたが、ティッサフェルネスの密告で失敗した。それでも母パリュサティスの介入によって恩赦を受け、リュディアへ戻ることができた。

プルタルコスによれば、捕らえられた恨みから、彼は以前にも増して王位を強く望むようになった。リュディアに戻ったキュロスは、兄王への反乱を準備した。カリアの太守ティッサフェルネスとイオニアの諸都市をめぐって争いを起こすなどして、大軍を集めることができたという。約1万人のギリシア人傭兵と、かつて支援したスパルタからの700人の重装歩兵や軍艦による援軍などを手に入れ、ピシディア人への攻撃を口実としてサルディスに軍を集めた。紀元前401年春、キュロスの軍はサルディスを発ち、帝国の中心がある東へ進んだ。ティッサフェルネスの警告を受けた兄王も、大軍を率いて迎え撃った。出発から180日後の秋、両軍はバビロン近くのクナクサで激突した。キュロスの軍はギリシア人傭兵の活躍などで優勢となり、キュロス自身も敵陣の中央に突出して兄王の胸を槍で突いた。しかしキュロスもまた敵の槍に刺され、戦死した。

キュロスの死で敵地に取り残されたギリシア人傭兵は、苦難を重ねながら退却した。その指揮官の一人であったクセノポンは、帰還までの旅を『アナバシス』に描いた。クセノポンはそこで、キュロスをキュロス2世以来もっとも王にふさわしいペルシア人と称賛している。

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