伝記
ヘファイスティオンは、マケドニア王アレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)の幕僚であり、親友として知られる人物である。生年は紀元前356年ごろとされ、大王と同年の生まれだったが、身長と体格では大王に勝っていた。容貌は美しかったが軟弱ではなく、武勇にも優れていたという。貴族アミュンタスの子として首都ペラに生まれ、少年時代から大王の親友であった。十代のころには、貴族の少年が務める小姓の役に就いたとされる。大王がアリストテレスのもとで学んだ時期に近くにいた可能性も指摘され、アリストテレスの書簡目録に名が見えることから、相応の教育を受けたと推測されている。
大王が即位すると側近護衛官に任じられ、東方遠征が始まってからは常にそば近くに仕えた。トロイの遺跡では、大王が英雄アキレウスの墓に花冠を捧げたのにならい、アキレウスの無二の親友とされるパトロクロスの墓に花冠を捧げた。このことから、二人が一種の恋愛関係にあったとする説が有力である。紀元前333年のイッソスの戦いの後、大王とヘファイスティオンが捕らわれたダレイオス3世の母と妃を訪ねると、母シシュガンビスは、より背の高いヘファイスティオンを王と思って跪いてしまった。大王は「お気になさるな。この男もまたアレクサンドロスなのだから」と笑って咎めなかったと伝わる。その後、フェニキアの征服ではシドンの新しい王を選び出し、エジプト侵攻の前には艦隊を率いてフェニキア沿岸を巡って治安を保った。
紀元前331年のガウガメラの戦いでは騎兵将校として奮戦し、左翼のパルメニオンの部隊を助けたが、乱戦のなかで腕を槍で貫かれる重傷を負った。同年冬、フィロタスによる大王暗殺の陰謀が発覚すると、幕僚の多くが即時の処刑を求めるなか、クラテロスらとともに拷問による真相の究明を主張し、これが容れられた。フィロタスが処刑されて騎兵指揮官の席が空くと、クレイトスとともに後任に任じられた。ソグディアナの平定からインド侵攻にかけては、しばしば別働隊を率い、ペルディッカスとともにカーブル渓谷を確保し、王の本隊に先立ってインダス川まで下って渡河の準備をした。その内容は、橋をかけたとも船を造ったともいわれ、定かでない。紀元前326年のヒュダスペス河畔の戦いでは本隊に加わって戦い、その後は小ポロスに降伏を勧告した。撤退が決まると、インダス川を下る船団と並行して陸路を南下し、住民が逃げ去ったパタラの砦を接収した。
大王とともにゲドロシアの砂漠を行軍してペルシスに達し、紀元前324年春、スーサでの合同結婚式でダレイオス3世の娘ドリュペティスを妻に迎えた。大王の妻となったスタテイラの妹にあたる。このとき千人隊長、すなわち帝国宰相に相当する地位も与えられた。しかし同年秋、エクバタナで突然病に倒れ、7日ほどで世を去った。大王は深く嘆き、投薬を誤ったとして医師を処刑し、三日間食事もとらず身なりも整えずに閉じこもった。バビロンには1万タラントンを費やして巨大な火葬壇を築かせ、彼を神として祭るよう命じたという。エジプト総督クレオメネスには、アレクサンドリアに英雄神として祭る神殿と霊廟を築くよう指示したが、その書簡に過失があっても咎めないと記したことは、アッリアノスら多くの史家に批判された。
生前のヘファイスティオンは、後にディアドコイとなるエウメネスと不仲で、大王の母オリュンピアスや声望のあったクラテロスとも対立したことが知られる。王の寵愛を受けながら、マケドニア軍のなかでは孤立しがちだったらしい。『ヒストリエ』など、漫画を含む多くの作品にも登場する。