伝記
プファルツェルのアデラは、7世紀末から8世紀前半にかけて生きたフランクの貴族女性で、修道院長、のちに聖人とされた人物である。アドゥラ、アドラナなどとも呼ばれる。没年は734年とも735年ともされ、660年の生まれとする説がある。トリーア近郊のプファルツェル修道院の創設者であり、初代の女子修道院長であったと伝えられる。
出自には諸説がある。伝承では、アデラはダゴベルト2世の娘で、聖イルミナ(オーレンのイルミナ)の妹とされる。母はダゴベルトがアイルランドに身を潜めていたときに結婚したアングロ・サクソンの王女マチルダだといい、アデラには兄弟が1人、姉妹が3人いたという。しかし、ダゴベルト2世の娘であることも、イルミナの妹であることも、証明されてはいない。この説は中世に現れた伝承で、現在ではほとんど顧みられていないともいう。アデラの家族は、本人が残した遺言状から知られる。遺言状には、息子アルベリク、姉妹とされるラゲントルードやプレクトルードの名が見え、修道院の建つ土地を、宮宰ピピンとの交換で手に入れたことも記されている。この遺言状は、テウデリクという王の治世12年に書かれたとされる。ただし、この王が誰かについては決着がなく、一般には733年か734年の作成と考えられている。
結婚については、アルベリクという男と結婚したとも、バイエルンのオドと結婚したともいわれる。子の数についても、数人とも1人の息子だけともされ、一定しない。息子アルベリクのほかに、ゲルリンデとハデリヒという子の名を挙げる記述もある。ゲルリンデはのちにアルザス公アダルベルトの妻となったという。夫の死後、アデラは修道生活に入り、プファルツェル修道院を建てて初代の女子修道院長になったとされる。別の説では、修道院はダゴベルト2世とトリーア大司教モドヴァルドが彼女のために建て、モドヴァルドの妹である聖セヴェラが初代院長を務め、アデラがそのあとを継いだという。創設は690年ごろとする記述もある。富と美貌のために多くの求婚者が現れたが、姉にならって修道女となり、この修道院を建てたと語る伝記もある。アデラは、のちのユトレヒトの聖グレゴリウスの祖母、または伯母(叔母)とされる。グレゴリウスの養育を引き受けたともいう。伝承によれば、聖ボニファティウスがプファルツェルに立ち寄った際、グレゴリウスはその教えに感銘を受け、アデラの反対にもかかわらず、最も熱心な弟子の一人となった。
アデラは、プファルツェル修道院で亡くなったとされ、没日は12月24日とされる。遺言では、息子に与えた所領を除くすべてを修道院に残した。墓は1802年に撤去され、遺骸の入った棺は北フランスのサン・マルタン・ド・リュシェ教会に移された。1868年に棺が開けられたが、中にあったのは遺言状の写しと1802年の報告書だけだった。1933年には、同じ教会の祭壇の下に隠されていた頭部と骨が見つかっている。聖人としての扱いには疑問も残る。崇敬は不確かとされ、中世の学者たちも彼女を聖人とは呼ばず、「敬虔な人」と呼んだ。それでも土地の民衆の間には信仰があり、祝日は12月24日(イルミナと同日)とされ、カトリックでは1月3日とする記述もある。カナダのサント・アデル市は、彼女にちなんで名づけられた。修道院の旧教会には、彫刻家ルートヴィヒ・モローダーによる木製の浮き彫りの像が作られている。
同じ年に亡くなった人物
- 毘伽可汗 (734年没)
- ポッポ (フリースラント王) (734年没)
- 伊然可汗 (734年没)
同じ地域に関係する人物
- ウィリアム・エドワード・パリー (1855年没)
- グスタフ・ザムエル・レオポルト (プファルツ=ツヴァイブリュッケン公) (1731年没)
- オットー・シュニーヴィント (1964年没)
- マリオン・G・デーンホフ (2002年没)
- エリーザベト・フォン・ゲルリッツ (1451年没)