伝記
毘伽可汗は、東突厥第二可汗国の可汗である。姓は阿史那氏、名は默棘連といい、阿史那骨咄禄の長男として683年に生まれた。毘伽可汗とは可汗号で、古テュルク語のビルゲ・カガンを漢字で写したもの、「賢い王」の意味とされる。第二可汗国では第4代の可汗にあたり、その事績はオルホン碑文に記されている。
幼い頃から父に従って戦場に出たという。天授(690年〜692年)の初め、父の骨咄禄が病死したとき、默棘連はまだ幼かったため、叔父の阿史那默啜が代わって可汗の位に就いた。默啜の下で697年にトゥルドゥシュ・シャドに任じられて西翼を預かり、701年には弟とともに唐の魏元忠の軍を壊滅させ、703年にはバスミルを再び服属させた。709年にエニセイ・キルギスを従え、その後の背反に対して710年に再び討って可汗を殺した。ボルチュの戦いではテュルギシュの可汗を討ったとされる。默啜の治世の末、714年から一連の戦いを重ね、716年にはウイグルの待ち伏せに遭って危うく命を落としかけた。
開元4年(716年)6月、默啜が九姓の抜曳固部に殺されると、小殺であった默棘連は後を継いで大可汗となり、毘伽可汗と号した。このとき、弟の闕特勤が旧部を集めて默啜の子の小可汗や諸弟を殺すなどし、即位に重要な役割を果たした。毘伽可汗は闕特勤に位を譲ろうとしたが、固辞されたため、彼を左賢王に封じて東突厥軍の兵馬を統帥させた。また默啜の衙官だった暾欲谷を用い、その娘の婆匐を可敦とした。暾欲谷は政権の参謀となり、降戸の阿悉爛らが帰順して唐の北辺を侵そうとしたときには「今はその時ではありません」と諫め、城壁の修復や仏教・道教の寺院の建築を提案したときには「遊牧民がすることではありません」と諫めた。毘伽可汗はその献策に従った。仏教に帰依して都市に定住することも考えたが、暾欲谷は、突厥の人数は少なく唐の攻撃に弱いうえ、力の源は機動力にあると説き、仏教は人々を平和主義にしてしまうので、テングリ信仰を守る必要があると退けたという。
開元8年(720年)9月には暾欲谷が甘州・涼州を襲い、涼州都督の楊敬述を敗走させた。開元9年(721年)秋、唐はバシュミル、奚、契丹の兵を発して東突厥へ進軍し毘伽可汗を捕えようとしたが、暾欲谷が先手を打ってバシュミルを完全に破ったとされる。同じ年のうちに契丹が、翌年には奚も破られた。726年に暾欲谷が亡くなり、開元15年(727年)には大臣の梅録啜を使者として唐に入朝させ、玄宗に馬30頭を贈り、吐蕃などによる反唐の同盟の動きがあることも伝えた。この警告は的中し、同年に吐蕃の将軍が唐に侵入して瓜州などを攻め落としたという。731年に闕特勤が亡くなったときは、可汗は深く悼み、盛大な葬儀を行わせた。733年には反乱を起こした契丹の部族を破った。
734年、和親の同盟を求める使者を唐に送った直後、毘伽可汗は梅録啜に毒を盛られた。すぐには死なず、梅録啜を斬ってその一味を滅ぼしたうえで、11月25日に世を去った。埋葬は翌735年6月22日に行われた。国人は子を立てて伊然可汗とし、のちに弟の登利可汗が続いた。毘伽可汗は暾欲谷の娘と結婚し、子には伊然可汗と阿史那骨咄などがおり、娘の一人は蘇禄に嫁いだ。死後、甥のヨルリグ・テギンによってオルホン川のほとりのホショ・ツァイダムに碑文が建てられた。これがビルゲ・カガン碑文で、古テュルク語で書かれた最も古い文献の一つである。