伝記
ジェームズ・ミルは、スコットランド出身の歴史家であり、哲学者、経済学者である。1773年4月6日に生まれ、1836年6月23日に没した。ジョン・スチュアート・ミルの父、ベンサムの友人として知られるが、自身も功利主義者の重鎮であり、リカードの学派の創始者の一人とされる。著作に『英国領インド史』がある。
スコットランドのアンガスに、靴屋で小さな農家でもあるジェームズ・ミルンの子として生まれた。母イザベル・フェントンは、ステュアート家とのつながりで苦労した家の出で、息子に一流の教育を受けさせようと決意していた。教区の学校のあと、モントローズの学院に17歳半まで通うという、異例の長さで学び、その後エジンバラ大学に入って、ギリシア語の学者として頭角を現した。1789年10月にスコットランド教会の牧師の資格を得たが、それ以上の成功はなかった。1790年から1802年までは、家庭教師などで生計を立てながら、歴史と哲学を研究した。スコットランド長老派の信仰で育ったが、若い頃にバトラーの『宗教の類推』を知り、天啓も自然宗教も、ともに斥ける立場をとった。死後の世界や地獄で現世の生活を律するキリスト教を嫌悪し、やがてはすべての宗教を道徳的悪として反対するようになった。
スコットランドでは先行きが見えず、1802年にロンドンへ出て、文筆に専念した。1803年から1806年まで、あらゆる知識の分野を要約して見せようとする雑誌の編集者を務めた。1804年には、穀物の輸出奨励金に反対するパンフレットを書いた。1805年末ごろから『英国領インド史』に取りかかり、3、4年のつもりが12年を要した。同年ハリエット・バロウと結婚し、1806年に長男ジョン・スチュアート・ミルが生まれた。1808年にベンサムと知り合い、25歳年上の彼の原則を全面的に採り入れ、世に広めるため全力を注ぐことを決意した。エディンバラ・レビューに寄稿し、1811年にはクエーカーで化学者のウィリアム・アレンと、雑誌を創刊して、教育、出版の自由、監獄規律などを論じた。1814年には百科事典の補遺に、功利主義を説く「法学」「政府」などの項目を書いた。
1818年に『英国領インド史』が出版され、すぐに成功を収めた。翌年、東インド会社のインド・ハウスに職を得て、インド通信の審査部門に勤めた。次第に昇進し、1830年には部門の長となった。『英国領インド史』は、インド植民地行政官のバイブルと称された。しかし、ミルはインド人を人を欺く気質を持つ人々と評し、中国などと並ぶ下等な文明だと見なした。経済学の大著『政治経済学の要素』は1821年に出た。1824年から1826年には、急進派の機関誌ウェストミンスター・レビューに寄稿した。1829年に『人間精神の現象の分析』を著した。
道徳上の理想像はソクラテスで、息子にもその確信を植えつけた。ある行為が快楽を生むか苦痛を生むかで、善悪の基準を設け、行為者の動機よりも、行為そのものの効用を判断すべきだと主張した。しかし晩年には、支払う代償に見合うだけの快楽はほとんどないと考え、最大の徳は節制であり、教育の中心になるべきだとした。感情をむやみに強調する風潮は、正しい行為の障害になるとも考えた。
同じ年に亡くなった人物
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同じ地域に関係する人物
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