伝記
クロード=ジョゼフ・ルジェ・ド・リールは、1760年5月10日に生まれ、1836年6月26日にショワジー=ル=ロワで没したフランスの軍人であり、作曲家、作詞家である。工兵将校として軍に仕え、フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」を作詞作曲したことで知られる。この曲は、もとは「ライン軍のための軍歌」として書かれ、1795年から1804年の総裁政府と執政政府の時代にも国歌とされ、のち1879年に再びフランスの国歌となった。
ジュラ県のロン=ル=ソーニエで、弁護士クロード・イニャス・ルジェの長男として、8人兄弟の長子に生まれ、母はジャンヌ・マドレーヌ・ド・ガイヤンドといった。幼い頃から音楽に熱中し、暇があればヴァイオリンを弾いた。弟とともに少年期を過ごしたのち、パリで軍事教育を受けた。貴族でなければ歩兵や騎兵の士官にはなれなかったが、平民も工兵学校への入学を試験で許されており、この専門は貴族にはあまり好まれなかった。そこでメジエールの王立工兵学校に入り、士官として卒業し、各地の駐屯地に配属された。ド・リールの名は祖父のものにちなんで名乗った。フランス革命が始まり、1791年にストラスブールに配属されると、市長のフィリップ=フレデリック・ド・ディートリッヒと、フリーメイソンの集会所で知り合った。ライン方面軍の司令官リュクネール元帥の求めで愛国的な歌を作曲し、憲法祝賀の祭りのための「自由への賛歌」は広場で民衆に歌われた。このころ喜劇『ブレスのバヤール』の台本も書いている。
1792年4月20日、フランスがオーストリアに宣戦布告した。その5日後の25日、ストラスブール市長は、リュクネール元帥ら駐屯地の将校との宴席で、大尉のルジェ・ド・リールに、方面軍の士気を高める行進歌を作るよう依頼した。彼はその晩のうちに曲を書き上げ、翌26日に市長と聴衆の前で披露した。『ライン軍のための軍歌』と題されたこの曲は、リュクネール元帥に献呈され、市長が楽譜を印刷させた。市長は、まず自分の客間で歌ったと伝わる。のちに、マルセイユの義勇軍がこの曲を採用し、パリに入る際に歌っていたことで有名になり、「ラ・マルセイエーズ」と呼ばれるようになった。音楽が、サン=トメールの大聖堂の楽長を務めた司教座聖堂参事会員の作った、宗教的な作品の旋律に由来するとの説もあり、当時は既存の曲に新しい歌詞を付ける手法が一般的だった。
同年、彼はストラスブールを離れ、ユナングの要塞を指揮した。8月10日の事件で、国王ルイ16世が王権を停止されると、立憲王政を支持していた彼は、憲法の違反に抗議したために職を解かれ、逮捕されて投獄された。1794年のテルミドールのクーデターの後、解放されて軍に復帰した。ロベスピエール失脚を祝う賛歌も1794年に作っている。しかし1796年に軍を追放され、ロン=ル=ソーニエに帰った。1814年にルイ18世を讃える「国王万歳」を作曲している。のちにルイ・フィリップから別荘と年金を与えられた。76歳で亡くなった。遺灰はショワジー=ル=ロワの墓地に埋葬されたが、第一次世界大戦中の1915年7月14日に、廃兵院に改葬された。
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