伝記
ヒシャームは、ウマイヤ朝の第10代カリフである。イスラム暦72年、西暦691年から692年にかけての年にウマイヤ朝の首都ダマスカスで生まれ、743年2月6日に54歳で没した。在位は724年から743年までの約19年に及ぶ。父は第5代カリフのアブドゥルマリク、母はアーイシャで、メッカとメディナの総督を長く務めたヒシャーム・ブン・イスマーイールの娘であった。クニャ(通称)はアブー・アルワリードとされる。
若い頃のことはあまり伝わらない。父の治世には幼く、政治や軍事の役割を担えなかった。兄ワリード1世の時代に一度、メッカ巡礼を率い、そこでアリーの子孫にあたるザイヌルアービディーンに会ったといわれる。706年にはビザンツ領へ遠征して複数の要塞を奪ったとも伝えられる。717年に兄スライマーンが死の床で従兄弟のウマル2世を後継に指名した際、ヒシャームは、カリフ位はアブドゥルマリクの直系の子孫のものだと抗議した。力で脅されて、ようやく反対をやめたという。ウマル2世とヤズィード2世の治世には、役職に就くことがなかった。724年1月、ヤズィード2世が没するとヒシャームが即位した。ヤズィード2世は、有力な将軍であった兄弟のマスラマの助言を受け、自分の息子ワリード2世よりも先にヒシャームを後継者に指名していたのである。即位の知らせを受けたのは、シリアの砂漠にある別邸ザイトゥーナにいたときで、駅逓の使者からカリフの指輪と杖を渡され、ダマスカスに馬で向かって、公に承認された。
最初の措置の一つは、同年3月にイラク総督ウマル・ブン・フバイラを解任することだった。彼はカイス・ムダル派の側に立ち、対立するヤマン・ラビーア派を強く抑えていた。ヒシャームは東方の党派争いを和らげるため、ウマイヤ家に忠実で、どちらの派にも属さないバジーラ族のハーリド・アルカスリーを後任にし、権限をイランの諸州やホラーサーンにまで広げた。ハーリドの15年の統治は、737年にジャズィーラとクーファで起きた小規模な騒ぎを除けば、おおむね安定していた。イラクでの干拓や灌漑による農地の拡大が財政を立て直したともいわれる。しかしハーリドは、カイス・ムダル派から敵視され、738年にヒシャームに解任された。後任のユースフ・ブン・ウマルはハーリドを投獄している。
対外的にも内部でも、難しい問題が続いた。ホラーサーンとその東北では、西突厥から自立した突騎施(テュルギシュ)の攻撃を受け、724年にはホラーサーン軍が包囲された。アラブ軍も党派で割れていた。さらにイラン系のマワーリー(非アラブ改宗者)と土着化したアラブによる反政府運動、南北アラブの権力争いがあった。ハワーリジュ派に扇動されたベルベル人の反乱は、740年から742年にかけてようやく鎮められた。740年にはザイド・ブン・アリーがクーファのシーア派に擁立されて蜂起したが、これは簡単に鎮圧され、ザイドは処刑された。
ヒシャームは、没落に向かうウマイヤ朝に、最後の安定期をもたらしたといわれる。ただ、腹心のハーリドがのちにマワーリーの税制問題で失脚するなど、すでに王朝は末期的な状況にあった。跡は甥のワリード2世が継いだ。孫のアブド・アッラフマーン1世は、のちにアッバース革命でウマイヤ家の一族が皆殺しにされた際、イベリア半島へ逃れて後ウマイヤ朝を建て、初代アミールとなった。
同じ年に亡くなった人物
- ヤフヤー・ブン・ザイド (743年)
- ムハンマド・バーキル (743年没)
- Godescalc of Benevento (743年)
同じ地域に関係する人物
- ザンギー (1146年没)
- ジハーディ・ジョン (2015年没)
- Uwais Qarni (657年没)
- ジェームズ・フォーリー (ジャーナリスト) (2014年没)