伝記
ヤズィード3世は、ウマイヤ朝の第12代カリフである。701年に生まれ、744年に没した。在位はわずか数か月で、744年4月に即位し、同年の秋に世を去ったが、在位日数は162日とされる。没日は9月25日とも、10月3日か4日ともいわれる。ワリード2世を倒して位に就いたことと、軍人の俸給を減らしたことで知られる。
父はカリフのワリード1世、母はペルシア出身の王女で、ワリード1世の側室であった。母のシャーファランドはサーサーン朝最後の皇帝ヤズデギルド3世の孫にあたり、その父ペーローズは唐に亡命した王子だったとされる。歴史家のタバリーは、ヤズィードが自分の祖先について詠んだ連句を伝えている。「私はホスローの子、祖先はマルワーン、カエサルは祖父、カガンも祖父であった」といった趣旨である。タバリーはまた、ヤズィードを背が高く美しい人物と記している。ワリード1世の息子は16人とも19人ともいわれ、ヤズィードはその一人であった。
従兄弟のワリード2世の時代、743年にイラク総督ユースフ・イブン・ウマルが、前任の総督ハーリド・アル=カスリーを殺害する事件が起きた。ワリードがこの行為を黙認したため、シリアの住民は憤慨した。ヤズィードは住民の先頭に立って反乱に加わり、首都ダマスカスの市民も合流して、ワリードは離宮に追いやられた。ヤズィードは、ヤマン族や非アラブのイスラム教徒と対立していたカイス族を優遇するワリードの「不道徳」を非難した。自由意思を説くカダル派やムルジア派の支持も得たとされる。
ヤズィード自身の説明によれば、バフラーでワリードと会見するため、アブドゥルアジーズ・ブン・ハッジャージを遣わした。アブドゥルアジーズは、部族の合議(シューラー)を開いて王朝の将来を決めようと提案した。ワリードがこれを拒んで攻撃してきたため、戦いのなかでワリードは命を落としたという。ヤズィードはワリードの首を槍に刺して掲げ、ダマスカスの市内を練り歩いた。その後、ワリードが後継者に指名していた王子のウスマーンとハカムを投獄した。即位にあたっては、自分は神の書と預言者のスンナのために蜂起したのであり、強者が弱者を襲ったわけではないと説明した。建築事業をせず、私財を蓄えず、貧しい土地の金を他の土地へ移さないこと、国境の防備を強め、月ごとの手当てと年金を支給することを約束した。公約に違反すれば退位すると誓い、シューラーを経てカリフに選ばれた。軍人の俸給はワリード2世の時代に増額されていたが、ヤズィードはこれをヒシャームの時代の水準に引き下げ、一割ほど減らしたとされる。このため「アン=ナーキス(削り屋)」とあだ名された。統治では、ユースフ・イブン・ウマルを投獄し、ウマル2世の子アブドゥッラー・イブン・ウマルをイラク総督に任じた。粗悪な飲み水に悩むバスラの住民が運河の建設を訴えると、費用がイラクのハラージュ総額に達しても充てるよう命じ、アブドゥッラーの名を冠した運河が造られた。一方、ホムスは忠誠の誓いを拒み、反抗の動きがいくつも見られた。アルメニア総督を務めていた従兄弟のマルワーン・イブン・ムハンマドも誓いを拒み、ワリードの子の一人を位に就けようとシリアへ進軍したが、のちには従ったともいう。ホラーサーン総督ナスル・イブン・サイヤールも、その主権を認めなかった。
ヤズィードは脳腫瘍にかかり、病没した。死後は、弟のイブラーヒームが跡を継いだ。敬虔なイスラム教徒で、自身の言行に忠実な人物だと伝えられるが、禁欲主義者を装った自由意思論者だともいわれた。
同じ年に亡くなった人物
- リウトプランド (744年)
- ムハンマド・イブン・アリー・イブン・アブドゥッラー・イブン・アッバース (744年)
- 賀知章 (744年没)
- ワリード2世 (744年没)
- イルデブランド (744年)
同じ地域に関係する人物
- ハーフィズ・アル=アサド (2000年没)
- Rida al-Rikabi (1942年没)
- イブン・バイタール (1248年没)
- ムハンマド・ビン・カシム (715年没)
- Muhammad Mahdi Al-Jawahiri (1997年没)