伝記
ワリード2世(709年 - 744年4月)は、ウマイヤ朝の第11代カリフである。在位は743年から744年までで、わずか1年余りで反乱に倒れた。大酒呑みの遊蕩児として知られ、カアバ神殿の屋根の上で酒を飲もうとしてメッカ巡礼をしたと伝えられるほどの不心得者だったという。父は第9代カリフのヤズィード2世、母はウンム・ハッジャージュ・ザイナブで、ウマイヤ家の官吏ムハンマド・イブン・ユースフ・サカフィーの娘であった。父ヤズィード2世は724年1月に没している。父は息子ワリードを直ちに後継にするつもりだったが、兄弟のマスラマに説得されて、まず弟のヒシャームを継がせ、その次にワリードとする順序を定めた。ワリードが後継の第2位に指名されたのは、11歳の720年のことである。
成長するにつれて、叔父のカリフ・ヒシャームは当初かわいがっていた甥の放埒な暮らしに失望を深めた。ヒシャームはワリードの手当を減らし、好ましくない取り巻きを罰した。ワリードは宮廷を離れて砂漠の離宮に身を寄せた。ヨルダンの砂漠にあるカスル・トゥバの廃墟がその場所ではないかとされる。さらにヒシャームは、735年の巡礼の後にワリードへ退位を迫り、自分の子マスラマを後継にしようとした。ワリードはこれを拒み、ヒシャームは裏でマスラマへの支持を集めて切り崩しを図った。だが有力な支持者だった将軍マスラマ・イブン・アブドゥルマリクが730年代末に没したことで、この計画は大きく後退した。
743年2月6日にヒシャームが没し、ワリードはカリフとなった。即位するとすぐ、ヒシャームの子らをアッバース・イブン・ワリードに命じて捕らえさせたが、昔の友情と、ヒシャームから守ってくれた恩に免じて、マスラマの一家には手を出さないよう厳命した。皇太子時代から気前のよさで知られ、カリフとしては身体の不自由な人や盲人の手当を増やした。息子のハカムとウスマーンをこの順に後継とも定めている。詩作を好み、競馬も催した。タバリーは彼の詩をいくつも引いている。
しかし、スライマーン・イブン・ヒシャームを投獄したことや、飲酒や歌など評判の放縦さが反感を招いた。ホラーサーンの総督ナスル・イブン・サイヤールは、いったんは留任させたものの、ユースフ・イブン・ウマルから賄賂を受けて解任した。イラク総督を務めたハーリド・カスリーは、暗殺計画への参加を断り、ワリードに警告までしたが、その曖昧な警告が怒りを買った。ワリードは彼を投獄し、5000万ディルハムでユースフ・イブン・ウマルに引き渡し、ハーリドは拷問のうえ殺された。この仕打ちは親族の多くを激怒させた。ワリードの放縦を公然と批判したのは、謹厳な従兄弟のヤズィード・イブン・ワリードである。批判は、カイス系アラブを優遇してイエメン系や非アラブのムスリムを差別することにも向けられ、カダル派やムルジア派の支持も得た。計画を知ったアルメニアのマルワーン・イブン・ムハンマドは、国家の安定とウマイヤ家の存続のためもっと慎重に事を運ぶよう書き送ったが、聞き入れられず、武装した多数の者がダマスカスに入った。
ヤズィードはダマスカスに忍び込んでクーデターを起こし、ワリードを廃した。国庫の金も人々に配られた。カリフは市外の城に包囲され、よく戦ったものの、744年4月、現在のヨルダンにあるアグダフでスライマーン・イブン・ヒシャームの軍に敗れて殺された。首は槍に刺され、シリア砂漠の離宮からダマスカスへ運ばれたという。後を継いだのは従兄弟のヤズィード3世であった。
同じ年に亡くなった人物
- ムハンマド・イブン・アリー・イブン・アブドゥッラー・イブン・アッバース (744年)
- 賀知章 (744年没)
- リウトプランド (744年)
- ヤズィード3世 (744年没)
- イルデブランド (744年)
同じ地域に関係する人物
- ティトゥス・フルウィウス・ユニウス・クィエトゥス (261年没)
- アスカロンのアンティオコス (紀元前68年没)
- Gaius Cestius Gallus (101年没)
- アンティオコス1世ソテル (紀元前261年没)
- ムアズ・カサースベ (2015年没)