伝記
オーギュスタン・ピラミュ・ドゥ・カンドールは、1778年2月4日に生まれ、1841年9月9日に没したスイスの植物学者である。ロンドンの王立協会の外国人会員であった。植物学を中心に、植物地理学、農学、古生物学、医用植物学、経済植物学にも貢献した。
ジュネーヴ共和国のジュネーヴで、元役人のオーギュスタンと妻ルイーズ・エレオノール・ブリエールの間に生まれた。先祖はフランスのプロヴァンスの旧家で、宗教迫害を逃れて16世紀末にジュネーヴに移った。7歳のとき重い水頭症にかかり、幼少期は大きな影響を受けたが、文学などに才能を示し、詩作にも優れていたといわれる。1794年からジュネーヴの学院で科学の勉強を始め、ジャン=ピエール・ヴォーシェに学んで、植物学を一生の研究とすることを決めた。4年間、父の望みで科学と法律を学んだのち、1798年、ジュネーヴがフランス共和国に併合されると、パリに移った。ルネ・デフォンテーヌの推薦で、その夏、レリティエ・ド・ブリュテルの植物標本館で働いたことが、植物学者としての経歴の始まりとなった。この仕事で評価され、デフォンテーヌ自身からも貴重な指導を受けた。1799年には最初の属を設立し、最初の著書『多肉植物誌』を出版し、1802年に『ゲンゲ属の研究』を出版した。これらによって、キュヴィエやラマルクの注目を集め、1802年に、キュヴィエの推薦でコレージュ・ド・フランスの代理教授を務めた。ラマルクから『フランス植物誌』第3版の編集を任され、その序論で、リンネの人工的な分類法と異なる、植物の特徴に従う自然分類法を提案した。この版は、ラマルクの名と並ぶが、実際はカンドールの仕事であり、ラマルクは名前と標本の利用を貸しただけだったとされる。
1804年に『植物の薬効に関する試論』を出版して、パリ大学医学部から医学博士の学位を得た。2年後に『フランス植物の概要』を出した。その後6年間の夏、フランス政府の求めで、フランス各地の植物と農業の調査を行い、結果を1813年に発表した。1807年にモンペリエ大学医学部の植物学教授に任じられ、1810年には植物学の初代講座の教授となった。野外での授業には200人から300人の学生が集まり、朝5時から夜7時まで続いた。この間に、ポルトガルの博識者ジョゼ・コレイア・ダ・セラと親しくなり、植物の分類で類似性と対称性を重視する考え方の影響を受けた。1813年に『植物学原論』を出版し、新しい分類体系を示して、初めて「分類学」という語を使った。1816年にジュネーヴに戻り、翌年、ジュネーヴ州政府の求めで新設された博物学の講座を担当し、1834年まで、ジュネーヴ大学で植物学と動物学の教授を務めた。1817年には、ジュネーヴで最初の植物園を設立した。
晩年は、植物の完全な分類を目指す著作の執筆に費やしたが、2巻を発行した時点で、大規模な計画の完成を断念した。1824年から、より小規模な『植物自然分類体系序説』の刊行を始め、構想の3分の2にあたる7巻を完成した。種を100を超える属に、実証的な特徴で分類している。彼はダーウィンの自然淘汰の原理に影響を与えた「自然の戦争」の考え方を示し、異なる種が似た環境で似た性質を発達させる現象(相似)を認識した。また、一定の光の下でも葉の動きが日周期で変化することに気づき、植物に内部的な生物時計があると主張した。この発見には当時疑う学者も多かったが、1世紀以上のちの実験で、生物時計の存在が示された。息子アルフォンスや孫カシミールも、彼の仕事を引き継ぎ、3世代にわたって植物学者となった。
同じ年に亡くなった人物
- カルル・フリードリッヒ・シンケル (1841年没)
- 明命帝 (1841年没)
- カロリーネ・フォン・バーデン (1841年没)
- クロード・ヴィクトル=ペラン (1841年没)
- ジョン・マーフィー (1841年没)
同じ地域に関係する人物
- エリーザベト (オーストリア皇后) (1898年没)
- ピエール・ド・クーベルタン (1937年没)
- クリスティアン・フーシェ (1974年没)
- リジェ・リシエ (1567年没)
- ウンベルト2世 (1983年没)