HISTORICAL PERSON · 756年没

アイストゥルフ

ランゴバルド王。東ローマ帝国領ラヴェンナを征服したが、教皇の要請を受けたフランク王ピピン3世に敗れ領土を失った。

生涯
756年没
死亡地
イタリア共和国(パヴィーア県 / パヴィーア)
出生地
イタリア共和国(チヴィダーレ・デル・フリウーリ)
出典
世界地図
イタリア共和国(パヴィーア県)

伝記

アイストゥルフ(アストルフォとも)は、八世紀半ばのランゴバルド王である。フリウーリ公ペッモの子で、母はラトペルガといわれる。兄のラトキスが744年にランゴバルド王となると、アイストゥルフはフリウーリ公の地位を譲られた。749年にラトキスが退位して修道院に入ると、その後を継いで王位に就いた。在位は749年から756年までで、751年にはスポレート公も兼ねた。この年の春の終わりか夏に、後任の公を置かずスポレートを自らの直接の支配下に置いたとされる。

兄のラトキスはイタリア半島のローマ系住民に対して寛容だったが、アイストゥルフはこれを改め、教皇領や東ローマ帝国のラヴェンナ総督領に対して併合と侵攻を進める積極策をとった。750年とも751年ともいわれる時期にラヴェンナを征服して総督府を滅ぼし、ほぼ同じころイストリア半島も手に入れた。旧総督の宮殿に宮廷を構え、自らを「ローマ人の王」と称したとも伝えられる。さらにローマ公国に貢納や人頭税を求め、ローマを脅かした。もはや帝国の優位は消えたと考えた彼のもとで、先代の教皇ザカリアスがランゴバルド王たちに対して行った穏やかな外交は、後継の教皇ステファヌス2世には望めなくなった。教皇は和平を申し出られたものの、それはランゴバルドの覇権のもとでの和平だった。

東ローマ帝国の支援を期待できなくなった教皇は、フランク王国のカロリング家を頼った。かつて739年に教皇グレゴリウス3世がカール・マルテルに介入を求めた際には、カール・マルテルはランゴバルドとの同盟を優先して断っている。753年、ステファヌス2世はアルプスを越えてフランクの地に入り、冬をそこで過ごして援助を求めた。ちょうどそのころ、ピピン3世の兄弟カールマンが、アイストゥルフの圧力を受けてピピンにイタリアへの介入を思いとどまらせようとフランクに来ていた。しかし説得は実らず、ピピンは754年の夏に教皇とともにイタリアへ向かった。ピピンは先立つ751年に教皇ザカリアスの支持を得てフランク王になっていた。教皇はピピンとその子に「ローマ人の貴族」の称号を授けた。ピピンは聖ペトロの領地を返すようアイストゥルフに求めたが拒まれ、フランク軍の出兵となった。

755年の春、ピピンは軍を率いてアルプスを越え、ランゴバルド軍を敗走させた。パヴィーアが包囲されると、アイストゥルフは占領地を返還し恒久の平和を守る条約を結んだ。ところがフランク軍が去るとすぐ条約を破り、756年にふたたびローマを包囲した。教皇はもう一度フランクに救いを求め、ピピンは756年に戻ってアイストゥルフを再び破り、毎年の貢納を課した。ピピンは、アイストゥルフが征服していた旧ラヴェンナ総督領のエミリア・ロマーニャやペンタポリスなどと、ローマ公国の領土を教皇に寄進した。

アイストゥルフは756年、狩猟中の落馬事故による傷がもとで死去した。十二月のことともいわれる。ラトキスは修道院を出て王位を取り戻そうとしたが、デシデリウスに出し抜かれ、デシデリウスが757年3月に王となった。スポレート公はアルボインが継いだ。アイストゥルフが公位を譲っていた妻ギスアルトルダの兄弟アンセルムは、デシデリウスに追放され、ペトルスがフリウーリ公に就いた。アイストゥルフの名で伝わる法は九編あり、ロタリ王に始まる法集成の最後の追加にあたる。武器を持つ義務を土地の財産に応じて定め、国境の管理を強めた。教皇庁の記録は彼を「恥知らず」で残忍な者として描いている。

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