伝記
ウナール1世(クノアルドなどとも)は、八世紀前半のアクィタニア公である。在位は735年から745年とされ、756年に没した。もとはメロヴィング朝フランク王国に任命された公の地位だったが、父ウードからこれを受け継いだころには王朝の権威は地に落ちており、公国はほとんど独立状態にあった。事実上のフランク王国の支配者は宮宰のカロリング家であり、ウナール1世は度々その権威を受け入れさせられながら、736年、742年、745年の三度にわたって戦った。いずれも失敗に終わった。
735年、父ウード大公の死または退位を受けて公位を継いだ。このころは弟のアットンも共同の公だった。同じ735年、宮宰カール・マルテルがアクィタニアに侵攻し、要塞化された中心都市ボルドーを占領した。抵抗を受けた記録はない。ライバルだったウードがいなくなった機会に、ウナール1世に臣従と貢納を誓わせることが目的だったとみられる。前メス編年記によれば、カール・マルテルはウナール1世に公位を与えたうえで、ウナール1世とアットンに、自身と息子のカールマン、ピピン3世に対する貢納を約束させた。目的を果たしたカール・マルテルは、ボルドーなどアクィタニアの領土を奪わずに撤退した。
736年、兄弟は協定を破って反乱を起こした。何度か戦闘があったのち、アットンはカール・マルテル軍に捕らえられ、オセール司教のもとで投獄されたが脱出した。ところがウナール1世はこの弟を裏切り、ポワチエに呼び寄せて目をつぶし、修道院に幽閉した。おそらくこの裏切りと引き換えに、カール・マルテルはウナール1世を許し、公の地位にとどまらせた。両者の和平は、カール・マルテルが死去する741年まで続いたとされるが、それまでにも小規模な紛争があったことがうかがえる。
最大の乱は742年だった。フランク王テウデリク4世の死後、空位が続いており、前年にカール・マルテルも死去していた。ウナール1世は、かねてひそかに同盟を組んでいたバイエルン公オディロやアレマンニア公テウデバルトと呼応して、独立の回復を図った。カールマンとピピン3世の兄弟はオルレアンでロワール川を渡り、ブールジュ近郊を焼き、逃げるウナール1世を追って略奪し、ロシュ城を落として守備兵を捕らえた。兄弟はアクィタニアを去る前にポワチエで会談し、二人でフランク王国を分割し、異母兄弟グリフォを投獄することを決めた。この分割にアクィタニアは含まれず、結果としてその自治は認められた形になった。兄弟が去った742年の秋、ウナール1世は同盟者のオディロを助けるため、ロワール川を越えて逆に侵攻してシャルトルを奪い、当時の大聖堂が焼かれたという。
やがて兄弟はふたたびアクィタニアに侵攻した。ウナール1世はカロリング軍にかなわないと悟り、兄弟のあらゆる意向に従うと誓い、人質と貢納金を送った。屈辱を負った彼は冠を脱いで公位を捨て、レ島の修道院に引退し、息子のワイファリが後を継いだ。その後はローマに移り、サン・ピエトロ大聖堂に隣接する修道院に入ったという。756年、ランゴバルド王アイストゥルフがローマを攻撃した際、無防備だった近郊も襲われた。経験豊富な指揮官だったウナール1世は大聖堂の守備兵を率いたが、敵の投石にあたって死んだとされる。12世紀のフランスの武勲詩に登場するユオン・ド・ボルドーのモデルだと考えられている。768年に修道院を出て再びアクィタニアを率いたウナールがいたとする説もあるが、これはおそらく孫のウナール2世との混同である。
同じ年に亡くなった人物
- ガッラ・ガウロ (756年)
- Abd al-Hamid al-Katib (756年)
- ユースフ・アルフィフリー (756年没)
- アイストゥルフ (756年没)
- 楊貴妃 (756年没)
同じ地域に関係する人物
- ユーグ (トゥール伯) (837年没)
- カルラ・マランゴーニ (2018年没)
- ジュゼッペ・アミサニ (1941年没)
- リュートプランド (クレモナ司教) (972年没)
- グリムヴァルト (671年没)