伝記
イブン・アル=ムカッファは、721年頃に生まれ757年頃に没した、ペルシア出身の著作家である。アラビア語で書き、模倣しがたい名文家として知られる。中世ペルシア語の文献をアラビア語に訳し、アラビア語文学でアダブ文学というジャンルを確立した書き手の一人でもある。ムカッファは通称で、本名はアブー・ムハンマド・アブドゥッラー・イブン・ダードゥーヤという。
ウマイヤ朝の時代に、ペルシアのファールス地方の貴族の家庭に生まれた。イスラームへの改宗は遅く、ムスリム名アブドゥッラーを名乗る前には、ルーズビヒというイラン系の名があった。改宗前はマニ教徒だったが、ゾロアスター教徒だったと書く文献もある。母語は中世ペルシア語で、アラビア語は母語ではなかった。父ダードゥーヤはウマイヤ朝のイラク太守ハッジャージュに仕える書記・税吏だった。横領の罪に問われ、バスラで拷問により手をつぶされた。「ムカッファ」とは不具の手の者を意味し、この父を指す。
少年時代にバスラへ移って諸学を修めた。父が二人の著名な指導者にアラビア語を教え込ませたので、すぐにバスラの文学界で活躍するようになった。遅くとも743年までにシャープールで書記として働きはじめたが、上司の太守マスィーフと後任の太守スフヤーンの権力闘争に巻き込まれた。その後はウマイヤ朝最後のケルマーン太守の下で書記を務め、イラク太守ヤズィード・イブン・ウマルとその弟ダーウードにも仕えた。ウマイヤ朝の没落後は、アッバース朝の初代と二代のカリフ、サッファーフとマンスールの父方のおじイーサー・イブン・アリーに仕え、その勧めでイスラームに改宗した。以後は基本的にバスラで過ごし、イーサーの弟スライマーンなどカリフのおじたち「バヌー・アリー」との関わりを深めた。
著作では、ササン朝の年代記『フダーイ・ナーメ』と制度を扱った『アーイーン・ナーメ』をペルシア語からアラビア語に訳した。ただ、『フダーイ・ナーメ』が一つのまとまった原典だったかどうかには疑問も出されている。アリストテレスの論理学の書、『範疇論』『命題論』『分析論前書』の訳も伝えられる。最も有名なのは『カリーラとディムナ』で、インドの寓話『パンチャタントラ』に遡る動物寓話集の中世ペルシア語版をアラビア語にしたものである。その中世ペルシア語版は失われ、彼の訳が後のシリア語、ギリシア語、ヘブライ語、ラテン語などへの翻訳のもとになった。序文を自ら付け、物語を加えたともされる。この訳は、詩が中心だったアラビア語文学に散文を広めるきっかけとなった。また論考『アル=アダブ』は「大」と「小」からなり、慣習に基づく礼儀作法や道徳を述べ、作法、教養、倫理、文学とアダブを結びつけて論じた。後世の散文に影響し、ジャーヒズ、イブン・クタイバ、ビールーニーらに影響を与えたとされる。
殺された時期は明確でないが、757年4月頃より前である。バヌー・アリーの一人アブドゥッラーがマンスールに反乱を起こし、鎮圧後に大目に見られたが、政権が固まると粛清が進んだ。スライマーンがアブドゥッラーの赦しを願う書簡を送った際、その書き手が彼とされ、文面に怒ったマンスールは、スフヤーンに個人的な制裁を許した。彼は拷問を受けて殺されたようである。バスラで異端の罪で処刑されたともいわれる。二元論の擁護などが彼の作とされ、真偽はともかく、改宗後もゾロアスター教の異端者という死後の評判につながった。
同じ年に亡くなった人物
- エゼルバルド (マーシア王) (757年没)
- シゲベルト (ウェセックス王) (757年)
- イスマーイール・イブン・ジャアファル (757年(推定))
- ステファヌス2世 (ローマ教皇) (757年没)
- アルフォンソ1世 (アストゥリアス王) (757年没)
同じ地域に関係する人物
- シュフダ・カーティバ (1178年没)
- アブー・マフディー・アル=ムハンディス (2020年没)
- Abu al-Aswad al-Du'ali (688年没)
- Imam Zufar (775年没)
- Malik, son of Dinar (748年没)