HISTORICAL PERSON · 1842年没

エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン

18世紀で最も有名な女性画家とされるフランスの画家。マリー・アントワネットの肖像画を数多く描き、革命期はイタリアやロシアで活動した。660の肖像画と200の風景画を残し、回想録も出版した。

生涯
1842年没
死亡地
フランス共和国(パリ)
出生地
フランス共和国(パリ)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランは、1755年4月16日にパリで生まれ、1842年3月30日に亡くなったフランスの画家で、18世紀で最も有名な女性画家であった。肖像画を得意とし、ロココ様式の名残に新古典主義の要素を取り入れた画風とされる。画家のルイ・ヴィジェと、農民の出で美容師だったジャンヌの娘として生まれた。7、8歳のころに髭の男の素描を描き、それを見た父は「お前は、画家になる」と喜び、絵を教え始めた。5歳から1766年まで修道院で過ごし、父の友人の画家で詩人のピエール・ダヴェーヌの助手として学んだ。12歳のときに父が、手術後の感染症で亡くなった。翌年、母は裕福だが吝嗇な宝石商と再婚した。彼女は回想録で、継父を憎んでいたと記している。

父の死後、母はパリのリュクサンブール宮の美術館に連れて行き、ルーベンスらの作品に深い感銘を受けた。ドワイヤンやグルーズ、ヴェルネらの助言にも恵まれた。10代前半には、すでに職業として肖像画を描いていた。当時の高いロココの流行を嫌い、モデルに衣装を変えてもらい、ラファエロにならって肩掛けや長いスカーフをまとわせることが多かった。無許可営業でアトリエを差し押さえられたのち、聖ルカ組合に申し込み、1774年10月25日に会員となった。評判は急速に高まり、国外にも広がった。1776年に画家で画商のジャン=バティスト=ピエール・ルブランと結婚し、1780年に娘ジュリーが生まれた。

貴族の多くを肖像画に描き、経歴を開花させた。マリー・アントワネットの肖像画を描くためにヴェルサイユ宮殿へ招かれ、王妃は大変喜んだ。以後数年間、王妃や子供たち、王族の肖像を数多く依頼され、画家と王妃を超えた友人関係を築いたといわれる。1781年には夫とフランドルとオランダを旅し、後のオランダ王ウィレム1世を含む貴族の肖像を描いた。1783年3月31日に、王立絵画彫刻アカデミーの会員に歴史的寓意画家として迎えられた。夫が画商であることを理由に男性の会員たちが反対したが、マリー・アントワネットが国王に相当な圧力をかけたため、国王の命令で覆された。

王族が逮捕されたのち、フランス革命の間はフランスから逃れ、数年間をイタリア、オーストリア、ロシアで暮らし、画家として働いた。ローマでは作品が絶賛され、聖ルカ・アカデミーの会員に選ばれた。ロシアでは貴族に歓迎され、エカチェリーナ2世の皇族を多数描いて、サンクトペテルブルク美術アカデミーの会員にもなった。1802年にフランスへ戻り、イギリスを訪れて、バイロンらの肖像画を描いた。ナポレオンの妹の肖像画も手がけたが、ナポレオンと折り合いが悪くなり、1807年に出国して、スイスに赴いた。王政復古後はルイ18世に手厚く迎えられた。50代でルーヴシエンヌに家を購入したが、1814年の戦争中にプロイセン軍に押収された。

1835年から1837年に回想録を出版し、王立アカデミーが支配した時代の終わりにおける芸術家の育成について、興味深い視点を提供した。660の肖像画と200の風景画を残した。ロンドンのナショナルギャラリーなど欧米の主要な美術館で作品を見ることができる。画家としては名声を博したが、夫は賭博好きで、一人娘も長じてから素行が悪く、家庭には恵まれなかった。1842年3月30日にパリ近郊で亡くなり、遺骸はルーヴシエンヌの墓地に埋葬された。墓碑銘は「ここで、ついに、私は休みます」である。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物